真田家に関連する事項など
各地にある真田一族ゆかりの城郭~概要編~
はじめに真田一族の主な城郭には、室町時代からの「真田本城」・「松尾古城」(長野県上田市)、武田信玄の幕下となった真田幸隆が1551(天文20)年に攻略し本拠とした「戸石城」(長野県上田市)、1563(永禄6)年に攻略した新たな本拠とした「岩...
真田家に関連する事項など
はじめに真田一族の主な城郭には、室町時代からの「真田本城」・「松尾古城」(長野県上田市)、武田信玄の幕下となった真田幸隆が1551(天文20)年に攻略し本拠とした「戸石城」(長野県上田市)、1563(永禄6)年に攻略した新たな本拠とした「岩...
従来の真田丸真田丸は1615年の大坂冬の陣において、大坂城に入城した真田信繁(幸村)が造営した出丸である。信繁は作戦方針を巡り、後藤又兵衛らの浪人衆とともに、城から打って出る積極策を提案するが、大野治長らの豊臣家直臣に阻まれ籠城策に決まった...
真田丸の戦い大坂城へ入城した真田信繁は、明石全登、後藤基次、長宗我部盛親、毛利勝永とともに、浪人衆を率いる一軍の将に任命された。10月中旬の軍議で信繁は、豊臣秀頼自ら天王寺まで出撃し、信繁・勝永・基次らが宇治・瀬田に陣を構え、徳川方の大軍を...
真田信繁は真田昌幸の次男として上田で生まれたが、出生年については1567(永禄10年と1570(元亀元)年とする説がある。「幸村」の名で知られているが、当時代の確実な資料では確認できないので「信繁」を使用する。真田一族は武田信玄に仕えていた...
【「海津城」としての歴史】「松代城」は善光寺平の南東部、千曲川東岸の微高地に築かれた平城で、1560(永禄3)年頃に、武田信玄の命により「海津城」として築かれた。『甲陽軍艦』では、1553(天文22)年に清野屋敷を召し上げて、山本勘介の縄割...
二度にわたり徳川の大軍を撃退した「上田城」は、1583(天正11)年に真田昌幸が築城し、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い後に堀が埋められ、塀が壊されるなど徹底的に破却された。現在の「上田城」は、1622(元和8)年8月に真田信之(昌幸長男...
徳川家康の命を受けて真田昌幸が築城した「上田城」は、二度にわたって徳川の軍勢の攻撃を受け、それを撃退している。一度目は、「上田城」築城直後の 1585 (天正 13 )年閏8月、徳川勢7,000 余を撃退した第一次上田合戦(「神川合戦」)で...
「上田城」は上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面しており、「尼ヶ淵城」とも呼ばれた。1583(天正11)年に真田昌幸が築城し、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いまで真田氏の本城として領国支配の中心であった。この城には、158...
「名胡桃城」は、利根川と赤谷川の合流点から南西の河岸段丘上、標高約 430m のところに位置する中世城郭である。この地は越後方面から三国峠を越えて沼田、中山へ至る交通の要地で、現在も城の南西を国道 17 号バイパス(月夜野バイパス)が通って...
沼田城(群馬県沼田市)は1540年代(天文年間)に沼田盆地の中央、利根川と薄根川の合流地点の東南、比高70m の崖上に築かれた。この地は、東北方面は会津、東南は桐生、西は上田に通じるといった交通の要地である。その一方、これらの方面から沼田に...