【鎌倉殿の13人】鎌倉にある北条氏一族の館を探究する~『吾妻鏡』の記述と発掘調査成果から~

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概要

2022年(令和4年)のNHK大河ドラマは鎌倉幕府2代執権・北条義時(よしとき)が没する場面で終了した。
北条義時が没した場所は、鶴岡八幡宮の東南、現在、宝戒寺(ほうかいじ)が所在する一帯にあったという、代々の執権が居住した北条執権邸である。
北条義時の子どもたちのうち、長男・北条泰時(やすとき)は北条氏の長である得宗(とくそう)を継承して3代執権となり、小町に館を新築している。

以下、次男・北条朝時(ともとき)は祖父・北条時政の館であった「名越亭(なごしてい)」を継承して名越流北条氏の祖となった。
三男・北条重時(しげとき)は極楽寺(ごくらくじ)を建立して極楽寺流北条氏の祖となり、四男・北条政村は常盤(ときわ)に「常盤亭」と呼ばれる邸宅を構えた。




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五男・北条実泰(さねやす)の子の北条実時(さねとき)は鎌倉幕府の要職を務めて隠居後、武蔵国金沢(神奈川県横浜市金沢区)に別邸を構え、金沢流北条氏の祖となった。
また、北条義時の弟・北条時房(ときふさ)は若宮大路(わかみやおおじ)に館を構え、その長男・北条時盛(ときもり)が佐介(さすけ)流北条氏、四男・北条朝直(ともなお)が大仏(おさらぎ)流北条氏の祖となった。

以上のように、北条義時の子や孫は鎌倉幕府の実質的な支配者として鎌倉やその周辺に館を構え、その痕跡は現在も遺(のこ)されている。
本稿では北条氏一族の館跡の所在地や特徴などについて、『吾妻鏡』の記載や発掘調査成果を基に探究する。

鎌倉に遺る北条氏一族の館

【北条執権の館(「小町亭」)】
2代執権・北条義時の代に造営され、代々の執権が居住した館(「小町亭」)の跡には現在、宝戒寺が建立されており、その参道の脇に「北條執権邸舊蹟」(北条執権邸旧跡)と刻まれた石碑が建っている。
この石碑には「往時此ノ地ニ北条氏ノ小町亭アリ義時以後累代ノ執権概ネ皆之ニ住セリ……彼ノ相模入道ガ朝暮ニ宴莚ヲ張リ時ニ田楽法師ニ対シ列坐ノ宗族巨室ト倶ニ直垂大口ヲ争ヒ解キテ纏頭ノ山ヲ築ケリト言フモ此ノ亭ナリ……元弘三年新田義貞乱入ノ際灰塵ニ帰ス…」と記されている。
この碑文から、北条執権邸には北条義時以後も北条得宗家の執権が代々居住し、1333年(元弘3年)の鎌倉幕府滅亡時には、「相模入道」と称せられている得宗家最後の執権・北条高時(たかとき)が火を放って退去したことを知ることができる。
そして、鎌倉幕府滅亡後の1335年(建武2年)、後醍醐天皇の命を受けた足利尊氏が北条一族の慰霊のため、北条執権邸の跡に宝戒寺を建立して現在に至っている。

【北条泰時の館】
3代執権・北条泰時の邸宅については、『吾妻鏡』1210年(承元4年)11月20日条に「戌尅燒亡。此風甚利。相摸太郎殿小町御亭并近隣御家人宅等災」とある。
戌の刻(午後8時頃)に火事が発生し、風の影響で相模太郎(北条泰時)の小町亭と近隣の御家人の邸宅が燃えたというもので、この記事の「小町御亭」とは現在、宝戒寺が建つ北条執権邸であるという。
次に、1236年(嘉禎2年)年12月19日条には「武州御亭御移徙也。日來御所北方所被新造也。被建桧皮葺屋并車宿。是爲將軍家入御云々」とある。
この記事の内容は、1236年(嘉禎2年)8月4日、4代将軍・藤原頼経が若宮大路の東側に新築された御所に移ると、北条泰時も新御所の北側に新築していた館が完成したので移ったというものである。
また、新しい館には、将軍・藤原頼経を迎えるために桧皮葺(ひわだぶき)の建物と牛車を乗り付ける車宿(くるまやどり)を建設したことが記されている。
現在、北条泰時の館跡一帯は「北条小町邸跡(No.282)」として遺跡に指定されており、その範囲は、東西が小町大路と若宮大路の間、南が清川病院に接する東西方向の細い街路、北が鶴岡八幡宮の前を横切る横小路の内の一辺約200mの方形の区画である。




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【名越流北条氏の館(「名越亭」)】
名越流北条氏の館については、『吾妻鏡』1192年(建久3年)7月18日条に「御臺所渡御于名越御舘〔号濱御所〕被點御産所也云々」とある。
源頼朝の妻・北条政子が出産のために、北条時政の名越の館に移ったことが記されており、この館で誕生したのが3代将軍・源実朝(さねとも)である。
この「名越亭」と呼ばれる北条時政の館は北条義時の次男・北条朝時に受け継がれ、名越流北条氏の館となった。
館が所在したとされる名越の地は、鎌倉から三浦半島へ通じる要衝で近くには名越切通しがあり、防御施設と考えられる切岸(きりぎし)などが現在もみられる。

【北条政村の館(「常盤亭」)】
北条政村が別邸として構えた「常盤亭」は大仏切通しの西北の台地にあり、『吾妻鏡』には建物の様子や歌会が盛んに行われていたことなどが記されている。
そのことを裏付けるように、1977年(昭和52年)の発掘調査において、礎石を伴う建物跡が発見され、陶磁器、硯、瓦、文具などが出土し、その成果を踏まえ、1978年(昭和53年)には「北条氏常盤亭跡」として国指定史跡に指定されている。
その範囲は東西約700m、南北約300mに及び、谷戸の奥に「タチンダイ」と呼ばれている高台があり、ここが館の中心であったと考えられている。

【北条時房の館】
北条時房の館の位置については、『吾妻鏡』1239年(延応元年)4月25日条に「匠作亭〔前武州向顏〕」という記載から、北条泰時(「前武州」)の館の向かいに北条時房の館(「匠作亭」)があったことが分かる。
現在、北条時房の館跡一帯は「北条時房・顕時(あきとき)邸跡(No.278)」として遺跡に指定されており、その範囲は東を若宮大路、北を鶴岡八幡宮の三ノ鳥居前の横小路、西を小町通り、南を若宮大路と今小路通りを結ぶ道路に囲まれた長方形の区画である。

発掘調査成果から

前述したように、北条泰時の館跡は「北条小町邸跡(No.282)」、北条時房の館跡は「北条時房・顕時邸跡(No.278)」として遺跡に指定されている。
いずれの遺跡も現在、商業施設や共同住宅、個人住宅などが建ち並んでいるため、これまで断続的に行われてきた発掘調査は、限られた範囲でのトレンチ調査が大半であるが、貴重な成果が蓄積されている。

【「北条小町邸跡(No.282)」】
「北条小町邸跡(No.282)」の発掘調査では、13世紀前半から14世紀にかけての遺構と遺物が多数発見され、以下のことが成果として示されている。
<検出遺構>
*薬研堀(やけんぼり)、側溝、道路遺構、通路状遺構、溝、箱型木組、堀跡、井戸、土坑、柱穴列、石列、柱穴など
<出土遺物>
*かわらけ、国産陶器、舶載(はくさい)陶磁器、金属製品、骨製品、石製品、土製品など
<主な成果>
*館を囲む板塀の存在が明らかになったこと
*区画を分ける遺構が検出されたこと
なお、現在、遺構の一部は「M’s ark KAMAKURA」ビルの地下に検出時の状態に近い形で展示保存され公開されている。
具体的な遺構は芥穴(ごみあな)、柱穴、溝護岸土台材、溝護岸羽目板であり、ガラス板に解説が付せられており、鎌倉のような市街密集地での整備・展示方法として最適なものであろう。




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【「北条時房・顕時邸跡(No.278)」】
「北条時房・顕時邸跡」については、これまでに若宮大路側で開発に伴う多くの発掘調査が行われており、以下のことが成果として示されている。
<検出遺構>
*道路状遺構、溝、溝状遺構、礎石列、礎板列、板壁建物、井戸、土坑、柱穴など
<出土遺物>
*かわらけ、国産陶器、舶載陶磁器、金属製品、漆製品、骨製品、木製品、土製品など
<主な成果>
*13世紀前半から14世紀前半にかけて5期にわたる生活面が検出されたこと
*若宮大路側溝と考えられる木組の護岸を伴う南北溝が検出されたこと
*13世紀中ごろから後半の生活面で、屋敷の中核と推測できる大規模な礎石建物と掘立柱建物が検出されたこと
*13世紀末から14世紀初頭の生活面で、東・西・南に縁側がある鎌倉市内でも最大級の大型礎石建物が検出され、地位の高い人物の屋敷の可能性があること
*時期別の生活面によって検出遺構が異なる場所もあり、空間利用の変化がみられること

以上が「北条小町邸跡(No.282)」及び「北条時房・顕時邸跡(No.278)」の発掘調査の成果であるが、開発に伴う事前調査のため調査地点が若宮大路側に集中しており、また調査範囲も狭いことから館の全体像を解明するには更なる発掘調査成果の蓄積が求められよう。




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<主な参考文献>
関 幸彦、他 2017年『相模武士団』吉川弘文館
『北条泰時・時頼邸跡 発掘調査報告書』2013年
『北条小町邸跡(No.282)発掘調査報告書』2018年・2019年
『北条時房・顕時邸跡発掘調査報告書』2014年・2018年
『北条時房・顕時邸跡(No.278)発掘調査報告書』2020年

(寄稿)勝武@相模

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