概要
戦国大名は領国の拡大に伴い支城体制の確立に努め、戦国大名の居城である本城を中心に、周囲には各地域の拠点となる支城や、出張所にあたる枝城・端城(はじ)などの城郭を整備した。
これら支城・枝城・端城の中間地点には、兵員等の移動に伴う駐屯地としての機能をもつ「繋ぎの城」、通信・情報伝達を主な目的とする「伝えの城」、敵の領国との国境や最前線の「境目の城」を整備した。
関東最大の戦国大名である後北条氏は、北条早雲が京都から駿河(静岡県)に下向して伊豆(静岡県)・相模(神奈川県)を平定して以降、北条氏綱・北条氏康・北条氏政・北条氏直の5代にわたって勢力を拡大していく過程で、城郭体制を確立していった。
後北条氏は本城の小田原城(小田原市)のほか、勢力圏内に新たに城郭を築いたり南北朝・室町時代以来の既存な城郭を改修したりして支城などを整備し、一族や主な家臣を城主にした。
本城と有力支城には城領(支城領)が設けられ、その直轄領には郷村ごとに小代官(こだいかん)、支城には「衆(しゅう)」と呼ばれる軍団が組織された。
軍団は領国の拡大に伴い、在地の武士を被官として組み入れて番衆とし、本城や支城などの城郭の管理や警備、普請などを担当させた。
後北条氏の城郭の管理・警備については、城郭の管理方法などを定めた「城掟(しろおきて)」が残されている。
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本稿では、戦国大名の中でも典型的と言われる後北条氏の支城体制や「城掟」の特徴などについて、本城の小田原城周辺、足柄地方(神奈川県西部)を舞台に探究する。
足柄地方の支城体制
後北条氏の本城・小田原城の周辺、足柄地方の主な城郭としては、河村城(足柄上郡山北町)、松田城(足柄上郡松田町)、浜居場(はまいば)城・足柄城(南足柄市)が知られており、その概要は以下のとおりである。
【河村城】
河村城は甲斐(山梨県)・駿河(静岡県)に通じる交通の要衝である酒匂川北岸の3つの峯の西側、の城山(標高約225m)に立地する。
河村城は東方約5㎞に松田城、南西約3.5㎞に浜居場城、北西約5㎞に河村新城(足柄上郡山北町)が所在する。
縄張り(構造)は東西・南北方向の尾根が交差する本城郭(ほんじょうかく)を中心に、その東側に蔵(くら)郭・近藤郭・大庭(おおば)郭、北側に小郭・茶臼(ちゃうす)郭、南・西側に馬出(うまだし)郭・北郭・西郭と連なる。
各郭の間には堀切や堀が存在し、発掘調査により近藤郭と蔵郭との間の堀切は、河村城で最大規模の幅約30m、深さ約15mであることが判明した。
この大堀切から西側の本城郭を中心とする郭は、東側の大庭郭一帯よりも緻密・強固に造られている。
小郭の両側の堀は畝堀(うねぼり・障子堀)で後北条氏が小田原城をはじめ多くの城郭で取り入れたもので、後北条氏の築城技術の影響がみられる。
河村城は12世紀後半に河村氏が築城し、大森氏の持城を経て戦国時代になると、後北条氏が大堀切から西側も大規模に改修して直轄管理した。
1571年(元亀2年)3月には、後北条氏が磯邊・田名(神奈川県相模原市)から城普請の人足を出すよう命じるなど、有力支城の一つとして小田原城を防衛する役割を果たしたと考えられる。
【松田城】
松田城は丹沢山地の最南端の丘陵上(標高約190m)に立地に位置し、松田山の中腹より南方の足柄平野にせり出した丘陵に4つの郭が連なる連郭式の山城である。
『新編相模国風土記稿』(1841年完成)には「松田新次郎某」の城跡として堀切が存在したことが記載されている。
「松田新次郎某」は後北条氏の重臣・松田氏の一族で湯ノ沢城(足柄上郡山北町)の主であった松田康隆(やすたか)と推定されている。
南側斜面の発掘調査により空堀・堀切、土塁、掘立柱建物などの遺構が検出、陶磁器、かわらけ、炭化穀物類などが出土しており、遺構や遺物の状況から16世紀中頃から後半にかけて大規模な改修がおこなわれ、人為的に破壊されたものと考えられている。
【浜居場城】
浜居場城は、足柄城が位置する足柄峠の北東約3.5㎞、金時山から北東に約700mの城山(標高約700m)に立地し、足柄平野一帯や相模湾を眺望(ちょうぼう)することができる。
南方約14㎞に小田原城があり、西方約2.5㎞の尾根続きには、足柄城と浜居場城とを繋ぐ阿弥陀尾砦(あみだおとりで)が位置する。
縄張り(構造)は城山山頂部の郭群と西方の虎口(こぐち・出入口)遺構に大別される。
発掘調査により山頂部は主郭とその西の郭(西郭)で構成、南側を除く三方に関東ローム層を堀り下げた堀が存在することが判明している。
西方の虎口遺構は堀切と土橋・土塁で囲まれた小郭で構成されており、遺構の状況から足柄方面から浜居場城への尾根筋の古道を押さえる役割があったと考えられる。
浜居場城は、室町時代の大森氏の持城から、戦国時代の1500年(明応9年)に北条早雲によって落城した。
その後、1579年(天正7年)までには後北条氏の持城になり、甲斐の武田氏の備えとして重要な役割を果たすようになり、1581年(天正9年)6月19日付けで北条氏政が城郭の管理に関する二通の掟を発している。
【足柄城】
足柄城は足柄峠の尾根上(標高約759m)に位置し、縄張り(構造)は足柄峠を本城とし、尾根沿いの古道を取り込み、北西方向へ5つの郭が連なる5連郭の構成で、本城と二の郭の外壁に石積みが残存する。
足柄城の築城年代は定かではないが、戦国時代に後北条氏と武田氏との激しい対立の中で築かれたものと考えられる。
記録によると、1569年(永禄12年)2月、後北条氏は石切職人を足柄城に派遣している。
同年10月に武田信玄が小田原城下まで侵入したときには、足柄城をはじめ河村新城・湯ノ沢城など9か所の城郭が開城している。
1571年(元亀2年)3月には、足柄城の普請のために河村城とともに磯邊から人足が動員され、1579年(天正7年)8月にも三田郷(厚木市三田)の百姓に足柄城の普請が命じられている。
また、1582年(天正10年)5月には足柄城の警備や管理に関する「足柄当番之事」が出されるなど、足柄城は同じ尾根上に点在する浜居場城、猪鼻(いのはな)城、そして砦群と連携しながら駿河との国境の防衛を担ったのである。
以上、主な城郭4城や取り上げた城郭について、各城郭の機能や役割については以下のように整理することができる。
すなわち、河村城は有力支城、松田城・浜居場城・河村新城は「繋ぎの城」、阿弥陀尾砦は「伝えの城」、足柄城・猪鼻城・湯ノ沢城は「境目の城」である。
また、河村城と松田城の間は約5km、河村城と浜居場城の間は約4km、そして浜居場城と足柄城の間が約3kmであり、この距離間は後北条氏領国のほかの地域でもみられる。
城郭の管理・警備に関する掟
浜居場城と足柄城には、城郭の管理・警備などの方法を定めた「城掟」と呼ばれる法令が残る。
浜居場城については、1581年(天正9年)6月19日に、北条氏政が城番を務める須藤源次郎・村野安芸守・小沢孫七郎の3人に発した「はまいは掟」と、それと一体をなす「掟」の二通がある。
「はまいは掟」は5条からなり、読み下すと以下のようになる。
「一、城より西方へ一切人出すべからず、仮初(かりそめ)にも草を取るべからず、草木をば東の法にて取るべし、松田代指し置く間、然(しか)るより播衆用なき所にて、草木之取る者、即ち小田原へ馳せ来、被露べく候事、
一、人馬の糞水(ふんすい)、毎日城外へ取出し、いかにも綺麗に致すべし、但し、城一遠矢の内に置くべからず、遠所へ捨る事、
一、当番の者、城外へ出る事、一切停止(ちょうじ)せしめ候、鹿狸の類のもの取ると号し、山中へ分け入る事、努めて之あるべからず、脇より聞き届く候者、彼山へ入て頸(くび)を切るべく候。また、物頭(ものがしら)も重料(じゅうりょう)となすべき候事、
一、昼夜矢倉に人を付置き、然るより闕落(けつらく)の類の者見い出し、搦捕(からめとら)えて来るものは、侍・凡下(ぼんげ)を選ばず、忠節となすべく候事、
一、夜中の用心念を遣い、いかにも厳密に之を致すべき事、
右定む所、件(くだん)の如し、(後略)」
そして、その要点は、
第1条:敵地である西側へ出ることを禁止、草木を取るときは東側で取り、用がない者が草木を取るといって城を出るなら小田原城へ直ぐ連絡すること。
第2条:人馬の汚物は一遠矢(約100m)以上離れた城外に捨てること。
第3条:番衆(警備兵)たちが外へ出ることを禁止、鹿や狸を捕まえるといって箱根山中に入った者は「彼山」(処刑場がある山)で首を切ること。
第4条:昼夜兼行で矢倉に置く見張り番は、城内の番衆たちが逃亡しないように見張り、逃亡者を見つけたら武士でも農民・町人でも忠義とすること。
第5条:夜中の用心を厳密にすること。
である。
この掟の特徴は、浜居場城を警護する番衆たちに対する規定であり、領内の農民・町人が対象でないこと、城内からの逃亡防止を重視していることである。
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また、「はまいは掟」と一体となす掟は「は満(ま)いばと足柄の間の往還の事、一切停止(ちょうじ)せしめ畢(おわんぬ)、然(しか)るより大途(たいと)の用として橋を掛け置き候、下知に非ずして双方よりの通用、なお以下堅く制しせしめ候、例えば橋をはづし置くべし、并(ならび)に彼の引橋に番屋を作り、昼夜守手を置き、然るより伝道をも致者これあらば、則ち搦め捕え、披露遂ぐべく候、此条々もし妄(みだり)の由、聞き届くば、は満(ま)いば当番頭、何時(いずどき)も厳料に処すべき者也、仍って件の如し、(後略)」というものである。
その内容は、浜居場城と足柄城との往来を一切禁止し、北条氏政(「大途」)が往来するときのために途中に設けた引橋は通常はずしておくこと、不審なとして番屋を作り、昼夜を分けず番人を置くこと、抜け道をする不審な通行者があれば、番屋の監視者が捕らえて報告すること、などである。
次に足柄城に関する城掟として、1582年(天正10年)5月8日、5代目当主・北条氏直(うじなお)が足柄城の守将である北条氏忠(うじただ)にあてた「足柄当番之事」がある。
「足柄当番之事」は足柄城の管理・警備、普請に関する心得で14箇条からなり、その主な内容は以下のとおりである。
・北条氏勝に命じた、城外に役所を伴う新たな郭の普請の様子を絵図面にして届け出ること。
・城外への出入り、小足柄・猪鼻の二つの口から門外へ出ることを禁止、ただし、大手の宝鏡寺(ほうきょうじ・現、法経寺)口から山までは草木取ることを許可するが、下の田畑は他領でありそこへ降りるものは殺害すること。
・足柄城と猪鼻城の間の地蔵堂を結ぶ範囲は城兵の立入りを禁止し、侵入者や不審者の監視を徹底すること。
・二か所の矢倉(櫓)に番衆を置いて陣屋を造ること。
・北条氏忠は600人の兵を連れて足柄城に移動すること、などである。
こうした内容から「足柄当番之事」は、北条氏勝が千人の手間で足柄城を整備して防御を固め、そこへ北条氏忠が率いる600人の兵が足柄城に入城するにあたり、入念に固く守備するように心構えを説いたものであることがわかる。
城郭体制と足柄地方の城郭
足柄地方は古くから甲斐・駿河と国境を接し、関東へ入る玄関口として交通の要衝であり、戦国時代になると、小田原城を本城とする後北条氏のお膝元として重要な地域となった。
後北条氏は戦国大名の中でも典型的な支城体制を整備したことで知られている。
例えば、古城や廃城を改修して活用し、地域支配に重要な城郭の周辺に一里(4㎞)ほどの間隔で同一規模程度の城郭を配置するというものである。
後北条氏は小田原城を本城とすると、足柄地方の城郭を河村城や浜居場城などのように、古城や廃城に改修を加えて利用したり、新たに築いたりして支城体制に組み入れた。
このことは、西より足柄城・浜居場城・河村城・松田城のそれぞれの間が、約3km・4km・5kmであることが示している。
具体的には、12世紀後半に河村氏が築城した河村城を大改修して、有力支城として地域支配の拠点とし、甲斐・駿河の国境沿いには足柄城や猪鼻城などの国境守備の「境目の城」を築城し、松田城・浜居場城などは「繋ぎの城」としての役割を期待したであろう。
また、浜居場城や足柄城については、その守将に発せられた管理・警備、普請に関する規定(城掟)が残されている。
浜居場城には1581年(天正9年)6月19日に「はまいは掟」と、それと一体をなす「掟」が、足柄城には1582年(天正10年)5月8日に「足柄当番之事」が発せられている。
いずれの城掟も、後北条氏と甲斐・駿河の武田氏との対立が激しくなる中、城郭の管理・警備を強化して国境の防御体制をより強固なものとしていくという強い意思がうかがえる貴重な資料である。
その後、後北条氏は1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原攻めに屈服し、戦国大名としては滅亡する。
小田原攻めの際にも足柄地方の各城郭は大きな役割を果たしたが、それについては別途、探究する。
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<主な参考文献>
小田原市 1995年『小田原市史 別編 城郭』小田原市
武井 勝 1994年「西相模における中世城館」『神奈川考古 第30号』神奈川考古同人会
武井 勝 1997年「後北条氏と城郭」『史料でみる神奈川の歴史―神奈川県郷土資料集―』神奈川県高等学校社会科部会歴史分科会
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖、他 1980年『日本城郭大系 第6巻 千葉・神奈川』新人物往来社
(寄稿)勝武@相模
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