【戦国大名と城】後北条氏五代と城郭の解説~北条早雲からの勢力の拡大と主な城郭の分布~

「【戦国大名と城】後北条氏五代と城郭の解説~北条早雲からの勢力の拡大と主な城郭の分布~」のアイキャッチ画像

概要

1467年(応仁元年)に起きた応仁・文明の乱をきっかけに、室町幕府の権力は衰退していき、全国的に戦乱の時代(戦国時代)を迎えた。
関東では、1454年(享徳3年)に鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)が関東管領・上杉憲忠(のりただ)を謀殺したことをきっかけに享徳の乱が起こった。
この享徳の乱をきっかけに、鎌倉公方は足利成氏の古河公方と足利政知(まさとも)の堀越(ほりごえ)公方とに分裂し、関東管領・上杉氏も山内(やまのうち)上杉と扇谷(おうぎがや)上杉の2家に分裂して相争い、関東は戦乱の時代を迎えた。

この関東の戦乱に乗じて関東の覇者となった戦国大名が伊勢宗瑞(そうずい・以下、北条早雲と称す)を初代とする後北条氏である。
後北条氏は京都から駿河(静岡県)に下向した北条早雲が伊豆(静岡県)から相模(川崎市・横浜市を除く神奈川県)に進出して戦国大名となった。
それ以降、北条氏綱(うじつな)・北条氏康(うじやす)・北条氏政(うじまさ)・北条氏直(うじなお)の5代にわたって勢力を拡大して最盛期には関東全域を支配した。
2代目・北条氏綱以降は小田原城(神奈川県小田原市)を本城とし、勢力圏の拡大に伴い新たな城郭を築いたり、攻略した城郭を改修したりして領国支配の拠点とした。




スポンサーリンク



本稿では、戦国大名の先駆けといわれる北条早雲から始まる後北条氏5代の勢力拡大の軌跡を、主な城郭の分布と関連付けて解説する。
なお、地図「北条早雲時代の主な城郭」「北条氏綱時代の主な城郭」「北条氏康・氏政・氏直時代の主な城郭」の城郭は本稿に記載している城郭のみ示している。

北条早雲による伊豆・相模の平定

北条早雲は長く素浪人から下剋上によって戦国大名に成り上がったとされていたが、現在では室町幕府政所(まんどころ)の執事を務めた伊勢氏の出身であるとされている。
父は8代将軍・足利義政の申次衆(もうしつぎしゅう)であった伊勢盛定(もりさだ)、母は伊勢貞国(さだくに)の娘で、北条早雲の姉妹には駿河(静岡県)の守護大名・今川義忠(よしただ)の正室・北川殿がいる。
1476年(文明8年)、今川義忠が討ち死にし、今川氏で家督相続の争いが起きた。
北条早雲は北川殿の縁もあって調停をおこない、今川義忠の嫡子・龍王丸(りゅうおうまる)が成人するまで一族の今川範満(のりみつ)が家督を代行することで決着させたが、今川範満は、龍王丸が成人した後も家督を戻そうとしなかった。
そこで、1487年(長享元年)、北条早雲は再び駿河に下向し、同年11月に兵を挙げて守護所である今川館を襲撃して今川範満とその弟・小鹿 範慶(おしか のりよし)を自害に追い込んだ。
龍王丸は今川館に入り、2年後の1489年(長享3年)に元服して今川氏親(うじちか)と名乗り、名実ともに今川家当主となった。

この家督争いで功績があった北条早雲は、今川氏親の後見を務めるとともに伊豆(静岡県)との国境周辺に所領を与えられ、興国寺城(静岡県沼津市)の城主となった。
1493年(明応2年)、北条早雲は堀越(ほりごえ)公方・足利氏の内紛に乗じて、伊豆の堀越御所に足利茶々丸を襲い自害に追い込んだ。
堀越公方を滅ぼした北条早雲は、韮山城(静岡県伊豆の国市)を新たな居城として伊豆の領国支配を始めた。
2年後の1495年(明応4年)9月には、北条早雲は西相模(神奈川県西部)で勢力を誇っていた大森藤頼の小田原城(神奈川県小田原市)を襲い、大森藤頼を追放した。
北条早雲は西相模支配の拠点・小田原城を手中に収めたが、小田原城に移ることはなく、嫡子・北条氏綱を在城させたと考えられている。

その後、北条早雲は相模の平定を本格的に進めた。
まず、1512年(永正9年)8月に鎌倉時代以来の相模の名族である三浦氏の当主・三浦義同(よしあつ・道寸)の岡崎城(神奈川県平塚市・伊勢原市)を攻略し、三浦義同を三浦半島の住吉城(神奈川県逗子市)に追い払った。
次いで、同年10月、北条早雲は、三浦半島の付け根にあたり、江戸へと通じる東海道を制する軍事・交通上の要地に玉縄城(神奈川県鎌倉市)を築いた。
1516年(永正13年)には三浦義同・三浦義意(よしおき)父子が籠る新井城(神奈川県三浦市)を攻めて激戦の末に破って三浦氏を滅ぼした。
こうして相模の大半を支配下においた北条早雲は、1518年(永正15年)に隠居して翌1519年(永正16年)8月に没した。

北条氏綱による武蔵進出

北条早雲の跡を継いだ2代目の北条氏綱は、1487年(長享元年)に生まれ、文書上では1512年(永正9年)ごろから北条早雲の後継者としての活動がみられ、相模平定戦でも活躍している。
1518年(永正15年)、北条早雲の隠居により家督を継いで後北条氏2代目当主となり、翌1519年(永正16年)に北条早雲が没して名実ともに当主となった。
北条氏綱は後北条氏の居城を、これまでの興国寺城から自分が在城していた小田原城に移し、北条早雲の意志を引き継いで武蔵(東京都、埼玉県、神奈川県川崎市・横浜市)への進出を図った。

1523年(大永3年)7月ごろ、津久井城(神奈川県相模原市)を攻略し、相模全域を完全に平定すると、小机城(神奈川県横浜市)を攻略して南武蔵一帯を制圧した。
1524年(大永4年)1月、北条氏綱は1万人以上の軍勢で武蔵に侵攻し、1月下旬に江戸城を攻略し、城主の扇谷上杉朝興(ともおき)を河越城(埼玉県川越市)に追い落とし、更なる武蔵侵攻に乗り出すが一進一退の苦しい戦いを強いられた。
北条氏綱の軍勢は岩付城(埼玉県さいたま市)を落城させたが、上杉朝興の要請を受けた武田信虎(のぶとら)により奪還されるなど、激しい戦いで多くの犠牲者を出しため、上杉朝興と和睦した。
翌1525年(大永5年)2月、北条氏綱は和睦を破り岩付城の奪還に成功するが、逆に上杉朝興を中心は関東管領・山内上杉氏、武田氏、古河公方、小弓公方らによる北条包囲網が形成された。

そのため、後北条氏の勢いは止まり、1526年(大永6年)12月、小弓公方・足利義明(よしあき)の傘下にある安房(千葉県)の里見氏の軍勢が鎌倉に侵入し、鶴岡(つるがおか)八幡宮が焼失している。
里見軍の侵攻に対しては、玉縄城の北条氏時(うじとき)が鎌倉に援軍に出たことで、里見軍は撤退し、北条氏綱は防衛に成功した。
その後、北条氏綱は守勢から攻撃に転じ、1538年(天文7年)に嫡子・北条氏康ら2万の軍勢を率いて江戸城に入り、小弓公方・足利義明や里見義堯(よしたか)らの1万の軍勢と国府台(こうのだい)城(千葉県市川市)一帯で戦った(第一次国府台合戦)。
この戦いで北条軍は大勝利を収め、北条氏の勢力圏は武蔵南部から下総・上総(千葉県)にまで及ぶようになった。

1539年(天文8年)、北条氏綱は娘・芳春院(ほうしゅん)を古河公方・足利晴氏(はるうじ)に嫁がせて古河公方との絆(きずな)を強めた。
翌1540年(天文9年)11月には、1526年(大永6年)12月に焼失した鶴岡八幡宮の本殿再建が完了した祝いの席で、足利晴氏から関東管領に補任された。
北条氏綱の権威は絶頂に達したが、1541年(天文10年)7月に55歳で没した。

北条氏康と敵対勢力との戦い

3代目の北条氏康は1515年(永正12年)に北条氏綱の嫡男として生まれ、1530年(享禄3年)には小沢城(神奈川県川崎市)に来襲した上杉朝興の軍勢を奇襲で壊滅させ、華々しい初陣を果たした。
それ以降は、父・北条氏綱の武蔵侵攻を支え、第一次国府台合戦(1538年)の勝利後は北条氏綱から軍事権を譲り受けて勢力拡大に努めた。
1541年(天文10年)、北条氏綱が没して北条氏康が家督を継承すると、その混乱に乗じた扇谷家の上杉朝定(ともさだ)、山内家の上杉憲政(のりまさ)、古河公方・足利晴氏に今川義元も加わった北条包囲網が形成された。
1545年(天文14年)には、今川義元が北条領の河東(かとう)地方に侵入し、さらに武蔵における重要拠点である河越城が足利晴氏らの軍勢に包囲されるなど、北条氏康は窮地に陥っている。

しかし、1546年(天文15年)、北条氏康は上杉・足利の連合軍を夜襲でもって壊滅させ(河越夜戦)、武蔵北部まで勢力を拡大した。
1552年(天文21年)には上杉憲政の居城・平井城(群馬県藤岡市)を攻略し、上杉憲政を越後(新潟県)に追い払い、平井城には一族の北条長綱(ながつな・のちの幻庵)を入れ、その勢力は上野(こうづけ・群馬県)まで拡大した。
また、1554年(天文23年)には古河城(茨城県古河市)を攻略して足利晴氏を隠居させ、甥の足利義氏(よしうじ)を擁立させるとともに、今川義元及び武田信玄と同盟を結んだ(甲相駿三国同盟)。




スポンサーリンク



1559年(永禄2年)、北条氏康は家督を嫡子・北条氏政に譲り隠居するが、その後も小田原城の本丸で「御本城様」として政治・軍事の実権を握って北条氏政を後見した。
1560年(永禄3年)5月、今川義元が桶狭間(おけはざま)の戦いで織田信長に討たれると、今川氏の勢力は衰退していった。
甲相駿三国同盟の一角、今川氏が崩れたことで、上杉謙信は1561年(永禄4年)に関東に侵攻し、北条氏の本城・小田原城を包囲するが、北条氏康は籠城して上杉軍を退けた(小田原城の戦い)。
上杉謙信が帰国すると北条軍は反撃を開始し、1564年(永禄7年)の第二次国府台合戦で里見氏の軍勢に勝利して安房・上総(千葉県)にも勢力を拡大していった。

その後、北条氏康は北条氏政に命じて成田氏長の忍城(埼玉県行田市)などを攻略させ、武蔵のほぼ全域を勢力下においた。
さらに、北条氏政は北上して攻勢を強め、上杉謙信の関東管領としての権威を失墜させ、北条氏は上杉謙信に奪われた領土のほとんどを奪還した上に、下総(千葉県)をも支配して再び勢力を拡大したのである。

1568年(永禄11年)に武田信玄が甲相駿三国同盟を破り駿河に侵攻すると、北条氏康・氏政父子は、今川氏真(うじざね)に援軍を派遣して武田信玄を撤退させたが、西の徳川氏、北の武田氏、東の里見氏の三方から圧力を受けることになった。
この窮地を脱するために、北条氏康は1569年(永禄12年)、7男・北条三郎(のちの上杉景虎)を上杉謙信の養子に出し上杉氏と同盟を結んだ(越相同盟)。
この越相同盟が結ばれると、武田信玄は関東へ侵入し同年10月1日に小田原城を包囲したが、北条氏康は小田原城に籠城したため、武田軍は小田原城下に火を放ったのち撤退した。
北条氏政は2万の軍勢で撤退する武田軍を追撃し、三増峠(みませとうげ、神奈川県相模原市・愛甲町)に着陣した北条氏照(うじてる)・北条氏邦(うじくに)の軍勢2万とともに武田軍を挟撃しようとしたが、北条氏政軍が到着する前に戦いは武田軍の勝利で終わった(三増峠の戦い)。
元亀年間(1570年~1573年)に入ると駿河支配をめぐり、北条氏政と武田信玄、徳川家康との間で対立が激化するが、その最中の1571年(元亀2年)10月に北条氏康が没し、北条氏政が名実ともに4代目の当主となった。

領国の最大化から没落へ

北条氏政は同年12月に武田信玄と同盟を結び(甲相同盟)を結び、上杉謙信と対立するが1573年(天正元年)4月に武田信玄は没した。
その後、北条氏政は1574年(天正2年)に北関東の要衝である簗田晴助(やなだ はるすけ)の関宿(せきやど)城(千葉県野田市)を、翌1575年(天正3年)には小山秀綱(ひでつな)の下野祇園(ぎおん)城を攻略した。
さらに、1577年(天正5年)には上総に侵攻し、長年対立していた里見義弘と和睦するなど、後北条氏の勢力は南関東全域に拡大した。
1578年(天正6年)に上杉謙信が没して家督争いが起こると(御館の乱)、北条氏政は弟の上杉景虎を支援して越後(新潟県)にまで勢力の拡大を図ったが、同盟する武田勝頼上杉景勝を支援したために、上杉景虎が敗北して没した。
その後、武田勝頼と上杉景勝との間に同盟が結ばれると(甲越同盟)、後北条氏は再び武田氏と敵対するが、その最中の1580年(天正8年)、北条氏政は嫡子・北条氏直に家督を譲り隠居した。

5代目の当主となった北条氏直は、時代が戦国から全国統一へ向かう中で、父・北条氏政とともに更なる勢力の拡大を図った。
1582年(天正10年)2月、織田信長が武田勝頼を滅した後、家臣の滝川一益(かずます)を関東管領に任じて関東支配を図った。
これにより一時、後北条氏がこれまで有していた東上野の支配権が奪われたが、同年6月、本能寺の変で織田信長が急死すると、その混乱に乗じて滝川一益を神流川(かんながわ)の戦いで破って上野を併合し、さらに信濃(長野県)に侵攻して上杉氏・徳川氏と争った。
その後、北条氏直は徳川家康と同盟を結び、関東全域の支配を目指して戦いを続け、下野(しもつけ・栃木県)や常陸(茨城県)にも勢力を拡大し、その領国は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部にまで及び最大となった。

しかし、織田信長の後継者となった豊臣秀吉が全国統一を進める中で、北条氏政・氏直は豊臣秀吉への対応を誤った。
具体的には1589年(天正17年)に家臣の猪俣邦憲(くにのり)が独断で真田氏の名胡桃(なくるみ)城を攻撃し、豊臣秀吉からの度重なる上洛の要請に応じなかったことなどである。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉は諸大名を動員して小田原攻めをおこない、北条氏政・氏直は小田原城に籠城して対抗するも、約25万の軍勢に包囲されて小田原城を開城した。
北条氏政は切腹を命ぜられ、北条氏直は一族とともに高野山に配流となったが、翌1590年(天正18年)に赦されて関東や近江(滋賀県)に所領を与えられたが、まもなく病没した。

北条早雲が京都から駿河に下向して伊豆・相模を平定して以降、北条氏綱・北条氏康・北条氏政・北条氏直の5代にわたって勢力を拡大していき、北条氏直の時期には関東一円、約250万石を領する関東最大の戦国大名となった。
後北条氏の城郭については勢力の拡大に伴い、本城の小田原城のほか、各地に領国支配の拠点となる城郭を整備し、一族や主な家臣を城主にし、各城郭にあわせた役割や機能を求めた。
こうした後北条氏の城郭体制は戦国大名の中でも特徴的であり、その詳細については別途、探究したい。




スポンサーリンク



<主な参考文献>
武井 勝 1997年「後北条氏と城郭」『史料でみる神奈川の歴史―神奈川県郷土資料集―』神奈川県高等学校社会科部会歴史分科会
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖、他 1979年『日本城郭大系 』新人物往来社
平井 聖、他 1980年『日本城郭大系 第6巻 千葉・神奈川』新人物往来社

(寄稿)勝武@相模

【戦国大名と城】後北条氏の城郭体制を探究する~神奈川県西部の足柄地方の城郭を事例として~
【西洋式城郭】江戸湾に築かれた「台場」を探究する~江戸幕府の海防政策と関連付けて~
【徳川四天王と城】井伊家14代の居城「彦根城」の特徴を探究する~築城経緯と縄張り(構造)を中心として~
【徳川四天王と城】井伊直政と「箕輪城」を探究する~発掘調査成果をもとに~
築城名人・藤堂高虎の築城術を探究する~今治城にみられる築城術を中心として~
築城名人・藤堂高虎が築いた城の解説~自らの居城の築城と「天下普請」による築城への関与~
【徳川家康と城】「天下普請」による築城を探究する~膳所城築城から徳川期の大坂城築城まで~
徳川将軍15代の居城「江戸城」の天守を探究する~短期間しか存在しなかった天守と現在も残る天守台~
江戸幕府の政庁「江戸城」の構造を探究する~藤堂高虎による縄張りと「天下普請」による変貌~
【徳川家康と城】江戸城の歴史を探究する~江戸氏の館から徳川15代将軍の城郭へ~
【教科書と城】小学校歴史教科書の「城」の扱いを探究する~3社の教科書の比較から~
【教科書と城】小学校歴史教科書に登場する「城」の紹介~学習指導要領と教科書制度を踏まえて~
【徳川家康と城】徳川家康の居城「駿府城」の特徴を探究する~発掘調査で判明した城郭史上最大級の天守台~
【徳川家康と城】徳川家康が二度築城「駿府城」の歴史を探究する~築城の経緯と背景を中心に~

共通カウント