徳川家康・先祖の地「新田荘遺跡」の解説~「徳川氏発祥の地」の遺跡を探る~

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徳川家康の始祖伝承

 
2023年(令和5年)のNHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公・徳川家康は1542年(天文11年)12月26日に三河(愛知県西部)の岡崎城(愛知県岡崎市)で生まれた。
父の松平広忠(ひろただ)は三河の小領主で岡崎城主、母の於大(おだい)は刈谷(かりや=愛知県刈谷市)の城主の水野忠政(ただまさ)の娘である。
徳川家康が生を受けた松平氏は、奥三河の加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の村長(むらおさ)の地位にあった松平親氏(ちかうじ)が初代とされ、以後、松平泰親(やすちか)・信光(のぶみつ)・親忠(ちかただ)・長親(ながちか)・信忠(のぶただ)・清康(きよやす)・広忠を経て徳川家康に至る。
そのうち、実在が同時代の史料で確認できるのは、3代の松平信光からであるが、松平氏には次のような始祖に関する伝承がある。




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それは、松平氏初代とされている松平親氏は、清和源氏の新田氏の支流で上野国新田郡新田荘得川(とくがわ)郷(群馬県太田市徳川町)を本拠とする得川義季(よしすえ)の7代目の子孫であるとするものである。
南北朝の動乱において南朝方として活動した新田一族は、北朝方の足利氏の迫害を受け、得川親氏も領地の得川郷を離れ、時宗の僧となって諸国を流浪し三河の松平郷に至った。
このときに松平郷の村長・松平太郎左衛門信重(たろうざえもん のぶしげ)の娘婿となり、松平親氏となったというのである。

江戸時代後期に編纂された『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)』は、徳川氏の遠祖とされる新田義重から徳川家康に至るまでの関係史料を編年体に集録し、項目ごとに関連史料の原文をのせ、その典拠も示されている。
この書は当時、大学頭(だいがくのかみ)であった林述斎(じゅっさい)が監修し、昌平坂学問所内の沿革調所(えんかくしらべじょ)で、戸田氏栄(とだ うじよし)らの幕臣21名が1819年(文政2年)に編纂を始めて、1842年(天保13年)に完成、江戸幕府に献上したものである。
現在、以下の「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧可能である。
『朝野旧聞裒藁. 第1輯』 – 国立国会図書館デジタルコレクション

松平親氏が新田氏の流れをくむ人物であったかについて、その根拠を示す決定的な資料は確認されていない。
ただし、徳川氏が清和源氏の名流・新田氏の系譜を引くことが江戸時代に認識されていたことは、『朝野旧聞裒藁』の内容から明らかである。
また、新田義重が開発した上野国新田郡(群馬県太田市)を中心とする「新田荘(にったのしょう)」の地には、江戸時代初期に「世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)」が勧請(かんじょう)されるなど、徳川氏発祥の地として重要視されてきた歴史がある。

新田荘の歴史

新田荘は、平安時代末期の12世紀中ごろに源義家の孫にあたる新田義重が、1108年(天仁元年)の浅間山の爆発によって荒廃した新田郡南西部の地を現在の太田市西部の早川流域・石田川流域を再開発したことに始まる。
新田荘に関する初の資料は1157年(保元2年)の「左衛門督家政所下文(さえもんのかみけ まんどころ くだしぶみ)」(由良家文書)である。
この下文は、新田義重が開発した私領を藤原忠雅(ふじわらのただまさ)に寄進、領家となった藤原忠雅がさらに金剛心院に寄進し本家とした際、「左衛門督家」(藤原忠雅)が新田義重を新田荘の下司職(げすしき)に任じたもので、これにより新田荘が成立したという。

1170年(嘉応2年)には、荘域が新田郡全体に拡大し、それ以降、新田一族は新田荘の各地に館(やかた)を構え、それぞれ郷村名を名乗って支配した。
1202年(建仁2年)に初代・新田義重が没した後の1224年(天仁元年)の段階では、新田荘は新田氏宗家と庶流の世良田氏・岩松氏の3氏の間で分割支配されている。
新田氏4代の新田政義(まさよし・1187年~1257年)は鎌倉幕府によって新田荘の大半を没収されて世良田氏・岩松氏らの一族に分割され、その勢力は弱体化した。




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新田氏8代の新田義貞(よしさだ・1301年~1338年)は鎌倉幕府の討幕に際して功績をあげ、南北朝の動乱期には後醍醐天皇の信頼を得て南朝の総大将となり勢力を強めた。
しかし、南朝の敗退とともに新田義貞とその一族は没落し、北朝側の岩松氏が事実上の宗家の地位を占めて新田荘を支配した。
戦国時代に入ると岩松氏が衰退して重臣の横瀬(よこせ)氏が実権をにぎり、金山城(群馬県太田市)を奪い城主となった。
その横瀬氏も由良国繁(ゆら くにしげ・横瀬氏から改称)の代に後北条氏に対抗して敗れ所領を失い、新田荘も解体に追い込まれた。

「新田荘遺跡」

新田荘が所在した群馬県太田市や周辺には、現在も関連する遺跡が多く残っており、それらの中の代表的な遺跡が2000年(平成12年)11月、「新田荘遺跡」として国の史跡に指定された。
「新田荘遺跡」を構成する遺跡は、①円福(えんぷく)寺境内、②十二所(じゅうにしょ)神社境内、③総持(そうじ)寺境内、④長楽(ちょうらく)寺境内、⑤東照宮境内、⑥明王院(みょうおういん)境内、⑦生品(いくしな)神社境内、⑧反町(そりまち)館跡、⑨江田館(えだやかた)跡、⑩重殿(じゅうどの)水源、⑪矢太神(やだいじん)水源の11遺跡である。
いずれも太田市内に所在し、これら遺跡の概要は以下のとおりである。

【①円福寺境内】(太田市別所町)
円福寺は鎌倉時代の13世紀中ごろに新田氏4代・新田政義が開基した、と伝えられている。
当時、円福寺の周辺は「新田荘由良郷」と呼ばれており、13世紀中ごろから14世紀前半までの新田氏宗家の拠点であったと考えられている。
現在、本堂には新田政義・政氏(まさうじ)・基氏(もとうじ)・朝氏(ともうじ)の位牌が安置され、境内には新田氏累代の墓と伝えられている20基余りの凝灰岩製の石層(せきそう)塔・五輪塔群がほぼ完全な形で残存する。
そのうちの1基には「沙弥道義(しゃみどうぎ)」が1324年(元亨4年)に72歳で亡くなったことが記されているが、「沙弥道義」は新田義貞の祖父・新田基氏の法名(ほうみょう)であるという。

【②十二所神社境内】(太田市別所町)
十二所神社は円福寺本堂の西側に位置し、いつごろ創建されたかは不明である。
本殿内に30cmほどの一木造りの16体の神像が安置されており、そのうち5体の神像には1259年(正元元年)の銘(めい)がある。

【③総持寺境内】(太田市世良田町)
総持寺は別名「館(やかた)の坊」とも呼ばれ新、田館跡の一角に建てられている。
新田館跡は西側の早川を背にして三方を堀にした一辺約200mの方形の居館で、東と西の一部に堀跡が残っている。
新田館の主については、新田氏初代の新田義重のほか、4代新田政義の失脚後に一時期、新田氏を代表した世良田頼氏(よりじ・得川義季の子)とする説や新田義貞とする説などがある。

【④長楽寺境内】(太田市世良田町)
長楽寺は1221年(承久3年)に初代・新田義重の子・得川義季を開基とし、栄朝(えいちょう・栄西の高弟)を開山として創建された東日本で最初の禅寺である。
室町時代初期に成立した「五山十刹(ござんじゅっさつ)」の制では、長楽寺は十刹の第7位に位置づけられた。
1590年(天正18年)から関東の地を領有した徳川家康は、長楽寺を祖先の寺として重視し、天海僧正(てんかいそうじょう)を住職に任じて寺領100石を与えている。
天海僧正は臨済宗から天台宗に改宗し、長楽寺の復興に努めて江戸幕府の庇護(ひご)のもと、末寺700余を有する大寺院に発展させた。
現在、境内には中世石塔群や蓮池(はすいけ)、江戸時代の建物である勅使門(ちょくしもん)・三仏堂・太鼓門(たいこもん)・開山堂などが残る。

【⑤東照宮境内】(太田市世良田町)
東照宮は長楽寺住職・天海僧正の発願(ほつがん)により、日光から長楽寺境内に勧請された神社で「世良田東照宮」と呼ばれている。
1636年(寛永13年)、3代将軍・徳川家光が「日光東照宮」(栃木県日光市)を全面的に改築した際、天海僧正が旧奥社の拝殿と宝塔(現存せず)を、徳川氏祖先と伝えられている得川義季が開基した長楽寺の南西部分に移築している。
江戸幕府は寺領100石に加えて、神領200石の朱印地(しゅいんち)を長楽寺に与えて別当寺(べっとうじ)とし、以後、東照宮の管理と祭祀(さいし)にあたらせた。
現在、境内には桃山時代の建築様式をよく遺す拝殿(はいでん)、巣籠もりの鷹で有名な本殿(ほんでん)、唐門(からもん)、鉄燈籠(てつとうろう)といった国指定の重要文化財などの建造物が多く残されている。

【⑥明王院境内】(太田市安養寺町)
明王院はかつての安養寺(あんようじ)館の跡に建てられた寺で、境内から出土した板碑(いたび)には、1342年(康永元年)6月に脇屋義助(よしすけ・新田義貞の弟)が伊予(愛媛県)で亡くなったことが記されている。
安養寺館跡は一辺約200mの方形で、「安養寺殿」と諡(おくりな)された新田義貞の居館とする説が有力である。
現在は土塁・堀は残されていないが、1855年(安政2年)の安養寺村絵図で堀が確認できる。
また、1985年(昭和63年)の発掘調査で堀の一部が確認されており、その形態や出土遺物から14世紀のものと考えられている。

【⑦生品神社境内】(太田市新田市野井町)
生品神社は、1333年(元弘3年)5月8日、新田義貞が後醍醐天皇の綸旨(りんじ)を受けて、鎌倉幕府討幕の兵を挙げた場所である。
生品神社の境内は、1934年(昭和9年)に「生品神社境内新田義貞挙兵伝説地」として国史跡に指定され、2000年(平成12年)には「新田荘遺跡」の一つとして面積を広げて指定された。
境内には新田義貞出陣に関連する「旗挙塚(はたごつか)」や「床几塚(しょうぎつか)」が、また新田義貞が軍旗を掲げたと伝えられているクヌギの古木(ふるき)が保存されている。

【⑧反町館跡】(太田市新田反町町)
反町館跡は現在、照明(しょうみょう)寺の境内となり、周囲に水堀が巡り、堀の内側の南・西・北には土塁が残されている。
平面形は凸字型を呈しており、その規模は、東西方向が南辺で約138m、北辺で約75m、南北方向が約115mであるが、東側の堀の北半部は県道改修の際、2倍以上の幅に広げられた。
反町館は鎌倉時代から南北朝時代ころに新田義貞が築き、その後、大舘氏明(おおだてうじあきら)が居住したという説があるが、それを示す明確な資料はない。
その後、室町時代に金山城の支城となり、戦国時代には三重の堀を巡らす城郭に拡張されたと推定されている。

【⑨江田館跡】(太田市新田上江田町)
江田館跡は木崎台地の西端部に立地し、「堀之内」と呼ばれる主郭(かく)部分は、東西約80m、南北約100mの方形で、堀がほぼ全周し内側には土塁が巡る。
堀の南辺と東辺の2箇所に虎口(こぐち・館の入口)があり、東辺と西辺は外敵を防御するために直角に折れ曲がっているなど、築造当時の姿をとどめている。
主郭の周囲には「黒沢屋敷」、「毛呂(もろ)屋敷」、「柿沼(かきぬま)屋敷」と呼ばれる平坦面があり、反町館跡と同様に戦国時代に城郭化されたものと考えられている。
江田館は反町館跡と同様、鎌倉時代から南北朝時代に築かれ、新田義貞の鎌倉攻めに従軍した江田行義(えだ ゆきよし)の館で、その後、戦国時代には金山城主・横瀬氏の家臣・矢内四郎左衛門(やない しろうざえもん)が館を拡張したと伝えられている。

【⑩重殿水源】(太田市新田市野井町)
1322年(元亨2年)の「関東裁許(さいきょ)状」(正木文書)には、新田一族の大館宗氏(おおだて むねうじ)と岩松政経(いわまつ まさつね)が「一井郷沼水(いちのいごうしょうすい)」から流れ出た「用水堀」を巡って争論を起こし、鎌倉幕府が判決を下したことが記されている。
この「一井郷沼水」が重殿水源であると考えられているが、現在は南北約30m、東西約10mの池で周囲は石垣に固められており、当時の「一井郷沼水」の面影はない。

【⑪矢太神水源】(太田市新田大根町)
1168年(仁安3年)の「新田義重置文(おきぶみ)」(長楽寺文書)には「上江田・下江田・田中・小角(こしみ)・出塚(いでづか)・粕川・多古宇(たこう・高尾)」などの郷が記されているが、それらは石田川水系に立地している。
矢太神水源は石田川の源流であり、この史料から新田荘の開発に湧水(ゆうすい)地の水が利用されたことを知ることができる。
現在、矢太神水源の周辺は「ほたるの里公園」として整備されており、公園北西側に湧水点がある。

以上のように、「新田荘遺跡」には「徳川氏発祥の地」としてふさわしい遺跡が多く残されている。
徳川家康が祖先の寺として重視した長楽寺や、3代将軍・徳川家光の代に日光から勧請された「世良田東照宮」などである。
江戸時代後期編纂の『朝野旧聞裒藁』には、前述したように新田荘を開発した新田義重から徳川家康までの関係史料が載せられている。
また、松平氏3代目の松平信光の願文には「源氏武運長久」という言葉が記されており、徳川家康の祖父・松平清康は「世良田二郎三郎」という名乗りを持っていた。
こうした松平氏に伝えられてきた始祖伝承を徳川家康は信じていたからこそ、「新田荘遺跡」に徳川氏ゆかりの遺跡が残されているのであろう。




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<主な参考文献>

笠谷 和比古 2016年『ミネルヴァ日本評伝選 徳川家康』ミネルヴァ書房 
「史跡 新田荘遺跡パンフレット 平成30年度版」太田市教育委員会 文化財課
『朝野旧聞裒藁. 第1輯』 – 国立国会図書館デジタルコレクション
新田荘遺跡 – 太田市ホームページ(文化財課)

(寄稿)勝武@相模

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