三谷幸喜先生脚本による2022年の人気NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が、いよいよ大詰めを迎えています。主人公の執権・北条義時が狡猾な謀略を用いて己の政敵を葬り去るという、いわゆる小栗旬さん演じる『闇落ち義時、ダークヒーロー・北条義時』<がネット上を賑わせていることは、皆様よくご存知の事だと思います。
先日放送された第41回(2022年10月31日)で、横田栄司さん演じるドラマ内随一?の愛されキャラクター和田義盛が、ダーク義時の謀略によって非業の最期と遂げた展開(和田合戦)は、視聴者の心を大きく揺さぶったものとして、SNS上で話題沸騰となりました。僭越ながら、かく言う筆者も、義盛の哀れな結末には悲しみを感じることを禁じ得なかったです。
他にも同じ回の別シーンで、栗原英雄さん演じる文官筆頭の大江広元が太刀を振い、勇猛なる和田の兵たちを倒すシーンもSNS上を騒がせ、一部では『大江無双』と取り上げられるほどにもなりました。白状すると、公家出身の文官である大江広元が、敵と直接干戈を交えるはずがないと思いつつも、筆者も男の魅力溢れる役者・栗原さん演じる広元の勇姿(ある意味のサプライズ演出)に惹かれてしまった一視聴者でございます。
(閑話休題)
初手から大河ドラマ感想文になってしまいましたが、史実でも鎌倉武家政権の政所別当であった北条義時が、有力御家人にして侍所別当(軍事長官)の和田義盛とその一族を、和田合戦にて滅ぼしたことにより、義時は政所別当職に加え侍所別当職も兼任。鎌倉政権の政治・軍事の両輪を掌握した北条義時(北条一族)が執権となり、鎌倉御家人の頂点に立ったのであります。
有力御家人の比企氏・畠山氏・和田氏、そして自身の父である北条時政らとの流血を伴うパワーゲームを制し、武家政権のトップに君臨した北条義時の最大危機は、やはり京都朝廷の長(治天の君)である後鳥羽上皇から追討令を受けたことでしょう。即ち「承久の乱」(1221年/承久3年、義時59歳)であります。
後鳥羽上皇と友誼を結んでいた鎌倉武家政権の棟梁である3代鎌倉殿・源実朝(右大臣、享年28歳)が、1219年(建保3年)に鶴岡八幡宮にて、甥・公暁(実朝の兄・源頼家の遺児)により暗殺されたことで、それまで小康状態であった京都朝廷と鎌倉武家政権の関係性が悪化の一途を辿り、実朝横死の2年後に朝幕関係は完全に破綻し、承久の乱を迎えることになります。
後鳥羽上皇は、初代鎌倉殿・源頼朝が東国鎌倉に武家政権(守護地頭制など)を確立して以来、京都朝廷の既得権益を侵害してきている目障りな武家を駆逐するため、当時(1221年)の武家政権の実力者・北条義時に対して追討令を出したのであります。
後鳥羽上皇、即ち官軍である京都朝廷から鎌倉武家政権(賊軍)に対して仕掛けた承久の乱は、上皇の思惑に反して、賊軍であるはずの北条義時率いる鎌倉御家人軍の方が強大となり、あっけなく朝廷軍の敗北に終わったことは有名であります。
敗者となった後鳥羽上皇は隠岐島に遠流となり、後鳥羽の決起に加担した「順徳上皇(後鳥羽の第3皇子)」は佐渡島、決起には加担しなかった「土御門上皇(同第1皇子)」も、自ら望んで土佐国(後に阿波国)へそれぞれ流刑に処されることになりました。
いわゆる北条義時主導による「三上皇の流刑」であり、天皇絶対主義とする皇国史観が主流であった明治期~昭和初期(戦前)では、「北条義時は朝廷に逆らい、上皇たちを遠島にし奉った問答無用な極悪人」というレッテルを貼られることになります。
事実、承久の乱で京都朝廷軍を完膚なきまでに撃破した北条義時は、上掲の三上皇の配流をはじめ、決起に加担した公家や武士(御家人)たちをも容赦なく徹底的に処刑・領地没収し、朝廷サイドからしてみれば、正しく逆賊・極悪人の如き振舞いを敢行したのであります。
東国武士政権の礎を築いた初代鎌倉殿・源頼朝は1185年(文治元年)、京都朝廷(後白河法皇)に対して強要する形で、対立した異母弟・源義経を追討する名目で、「守護地頭の設置許可」(文治の勅許)を得た際、謀反人・義経に加担した公家たちを解官させる朝廷の人事介入を断行していますが、(承久の乱後の北条義時のように)、多くの彼らを死刑にするという荒業まではやっていません。
源義経など自分たちの兄弟(その他、源氏一門)や上総広常といった味方勢力を容赦なく粛清する冷酷非情なイメージが強い源頼朝でさえも、後白河法皇や公家ら京都朝廷の人々を極刑に処すまでは至っていないのですが、その主な理由は、京都朝廷に対して、そこまで強気になれない理由は、彼も本来京都で育った軍事貴族であり、伝統権力や宗教を重んじる保守的な性格が強かったからだと言われています。
その源頼朝に対して、東国(坂東)で生まれ育った生粋の東国武士出身者で、頼朝が築いた鎌倉政権内での内部抗争を生き抜ぬいた権謀家・北条義時は、(頼朝ほど伝統権力に対して感傷的ではなく)、上皇をはじめ京都朝廷に対する人々への処置は熾烈なほど徹底しており、頼朝以来、徐々に力を付けてきた武家政権は、承久の乱後における義時によって、武家と朝廷、「東国国家(鎌倉幕府)」と「西国国家(朝廷)」の地位が完全逆転し、北条執権体制の鎌倉幕府から始まり、徳川家康創始の江戸幕府の終焉までの約600年間、武家政権の世が続くことになるのは周知の通りであります。
問答無用の逆賊・北条義時が成し遂げた歴史的功績は異常なほど大きいものであり、それは後世の慧眼優れたる人物たちも心得ていたことであります。
その中の1人が、前近代(江戸幕末期)の偉人・勝海舟であり、晩年の彼は『氷川清話』文中で、北条義時を以下のように高く評価しています。
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『国家のために自身は、不忠の名を甘んじて受けた。(中略) オレ(海舟)も幕府瓦解の時には、せめて義時には嗤われないようにと、何度も心を引き締めたことがあったけな』
最期の武家政権(江戸幕府)の葬送者たる勝海舟が、武家政権の草創者である北条義時を深く讃えているのは、何とも不思議な思いさせられますが、明治期の時世や著名人(特に政府高官)らを、痛烈かつ徹底的に批評している喧し屋の勝海舟でさえ、逆賊・北条義時を政治家の見本としているのであります。
現在のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の作者・三谷幸喜さんも年少期に好んで観ていたといわれる同ドラマ『草燃える』の原作者であられる作家・永井路子先生は、義時のことを『政治家として、日本史上随一の才能を持つ人物と思っている』(『にっぽん亭主五十人史』)と太鼓判を押された上、以下のような意味合いで日本史上稀有の政治家・北条義時ことを評論されています。
『義時の決断(筆者注:後鳥羽上皇への対決)によって、日本は歴史の逆行の歯車を止め、中世へ道を歩みはじめることになった。あいまいな妥協をして事を終わらせることを好む日本人の中で、彼はきわめて異色な勇気ある存在である』
永井路子先生、或いは勝海舟が評されるように、京都朝廷に逆らう不忠の汚名を敢えて着ることを選んだ武家政権の棟梁・北条義時は、後鳥羽上皇率いる朝廷軍(官軍)に対して戦うことを決意。
周知の通り、承久の乱は後鳥羽上皇が北条義時(大仰に言えば鎌倉武家政権)に対して仕掛けた大戦であったので、当初は義時にとっては自身や鎌倉を自衛するための『防衛戦』だったのですが、叛乱軍の鎌倉軍が官軍を破り、首都の京都まで快進撃に成功してしまう、という後鳥羽や義時など当事者たちにとっても信じられない結果になったのです。
後の20世紀初頭に起こった日露戦争をはじめ、古今東西問わず「敵が戦いを挑んできたために、仕方なしに相手をしたら、大勝利してしまった」という会戦例がありますが、承久の乱での北条義時の大勝もその1つでしょう。
鑑みれば、義時の義兄兼師匠格であったとされる源頼朝も伊豆挙兵(1180年)の当初の目的は、当時未だ朝廷の壟断者として君臨していた平氏の追及から逃れるための「自己防衛戦」であり、頼朝はその危難を乗り越えることによって、鎌倉に武家政権の礎を築いたのであります。
北条義時も自身にかかる火の粉(後鳥羽上皇の追討)を払うために戦い、最後の勝利者となった経緯は源頼朝と似ていますが、義時と頼朝の間で決定的に違う点は、義時は頼朝でさえも躊躇した「京都朝廷と全面衝突、そして朝廷を完全に屈服させる」という大偉業を結果的に達成し、頼朝の武家政権が飽くまでも東国統治を中心とした「地方政権」であったのに対し、義時が承久の乱で朝廷を完全屈服させたことにより、畿内~西海を含める西日本まで武家(守護地頭)による統治権を伸ばした『全国政権』になったのであります。
13世紀初頭、伝統権力の総元締である京都朝廷と新興勢力・武家勢力との戦いで勝者となった北条義時(鎌倉幕府・北条執権政府)は、それまで西日本と東日本の勢力の優劣さ(「西高東低」から「西低東高」)を完全逆転させ、本来朝廷の臣下の末端に過ぎない武士の義時が、三上皇配流・仲恭天皇の退位、貴族の処刑を敢行するばかりか、新天皇と新上皇(御堀河天皇と大上法皇)の践祚を主導するというように、完全に京都朝廷の人事権を掌握したのであります。また同時に、京都や西国諸国を監視するための幕府機関・六波羅探題を北条義時が設置したのも周知の通りです。
伝統権力あるいは当時唯一の中央政府である京都朝廷も牛耳るようになった北条義時は「元祖・朝幕戦(公武戦)」の最終勝利者と言えるのですが、義時がその地位に昇り詰めてしまったために、また新たな辛苦が義時を待ち受けていました。それこそが、急膨張した『守護地頭の統制強化』、『鎌倉武家政権の組織固め』であり、最晩年の北条義時が苦慮することになります。
『守護地頭の統制強化』というのは、先述のように、承久の乱で勝利した鎌倉武家政権が、後鳥羽上皇や公家をはじめ伝統権力者たち、あるいはそれに加勢した西国武士が支配してきた数多なる荘園領を接収。それらを鎌倉政権に味方した御家人や武士たちに恩賞として与えました。
武士たちに恩賞として土地(荘園)を与えたと言っても、武士たちが恩給された土地を排他的に支配/一円領有するわけでなく、飽くまでも御家人・武士たちは、表面向き(法定上)は、皇族・公家・寺社などの「伝統権力者(本領家/荘園領主たち)」が領有する荘園領の農場監督・徴税の代行を行う「管理人、即ち地頭職」という立場であり、これが初代鎌倉殿・源頼朝が京都朝廷から「地頭制の勅許(1185年/文治元年)」を得て以来の鉄則でした。
鎌倉政権が京都朝廷を圧倒した承久の乱後でも、上記の鉄則は不変なものであり、乱の平定に戦功があった御家人や武士たちが、恩賞として表面上与えられたのは、『新たな土地(荘園)の地頭職』というものであり、これにより誕生した地頭が『新補地頭(または新恩地頭)』と言われます。
因みに、それまで東日本を中心に地頭として割拠していた鎌倉御家人あるいは東国武士団の支族たちが、新補地頭職として西日本の荘園領有(旧:京都朝廷の支配圏内)に進駐することになります。
特に安芸・備後両国(広島県全域)がその現象が顕著であり、新補地頭職として多くの御家人たちが両国に参入してきました。熊谷氏・小早川氏・吉川氏・宍戸氏・天野氏など戦国期に国人衆として台頭する武家たちは本来、東日本を本貫地とする鎌倉御家人(東国武士団)であり、その中でも戦国期には謀神・毛利元就を輩出し、後年の明治維新の原動力となる毛利氏(長州藩)は、鎌倉政権の事務総長というべき大江広元の子・毛利季光を始祖としているのは有名であります。
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安芸国を例に見てもわかるように、承久の乱後は、東国に割拠していた鎌倉御家人や武士団が新補地頭職として大挙、西日本の荘園各地に新規参入したことにより、本来の荘園領主たる公家や寺社など伝統権力者たちとの間で、土地領有や租税を巡って利害衝突、学術用語でいう『下地・所務の相論』が激しくなったのであります。
前回の拙記事でも、守護地頭の設置認可(文治の勅許)を得た源頼朝が、御家人や武士たちを、地頭職あるいは守護として各地の公領荘園に差遣した直後、頼朝配下の地頭たちが任地で租税の横領を激化させ、伝統権力側(荘園領主)と対立し、結果、頼朝は伝統権力側に妥協する形で、一部地域の地頭職の廃止(武家政権の支配領域縮小)を余儀なくされる、ということを紹介させて頂きました。
武士たちが公領荘園を事実上支配するという地頭職が誕生して以降、彼らと(名目上のみの)荘園領主であった伝統権力側との、土地から産出させる租税などを巡って利害衝突が各地で頻発するというのは、不可避の問題事項でした。その問題を解決するために、存在したのが、武家の棟梁である鎌倉殿であり、鎌倉武家政権(幕府)だったのです。
この武家の棟梁と鎌倉幕府の存在意義は、後鳥羽上皇率いる京都朝廷軍を撃破した承久の乱後も不変であるばかりか、むしろ乱以前まで、坂東8ヶ国や奥州など東日本を基盤勢力圏としてきた鎌倉政権が結果、朝廷などの伝統権力の旧支配圏であった西日本まで勢力を拡大した全国武家政権となった結果、以前より多くの土地問題訴訟を裁定する必然性に迫られることになったのです。
先述のように、荘園領主(伝統権力)と新補地頭(武家勢力)との間で頻発する訴訟問題を裁定する最高責任者、裁判長的な役目を果たすのは、武家の棟梁・鎌倉殿、その政治機関である鎌倉幕府(厳密に言えば「政所(公文所)」と「問注所」)でした。しかし、周知の通り、承久の乱当時、3代にわたり鎌倉殿を司ってきた源氏将軍家の血脈は絶えおり、その急遽策として、京都朝廷の筆頭公卿である摂関家・九条氏から三寅(後の藤原頼経)を4代鎌倉殿として迎え入れられていましたが、当時の三寅はまだ幼少であったので、当然訴訟問題を解決できる能力はありませんでした。
幼少の鎌倉殿に代わって、その重責を担うことになったのが、鎌倉幕府2代執権・北条義時であります。義時は59歳から60歳という当時では相当な老齢でありますが、武家政権内で、全国規模に発生している土地問題や訴訟に勤しめるのは、長らく鎌倉にあって、武家同士の訴訟について実務経験が豊富であった北条義時しかいなかったのです。
余談ですが、恐らくNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、主人公・北条義時は不幸な最期(暗殺?)を遂げるような展開になりそうですが、創作想像の世界では実に面白い展開ですが、筆者が思うに、上記のように老齢の義時が、新補地頭と荘園領主との調停などの激務で心身を擦り減らしてしまった結果、死去したのではないでしょうか。武家政権の最後の勝利者(事実上のい武家の棟梁)になってしまった故、新たなに発生した労苦や激務によって斃れた北条義時。と筆者は思えるのです。
承久の乱後の執権・北条義時に課せられた責務は、前掲のように、鎌倉政権配下の新補地頭職と旧来の荘園領主との間に多発した経済的軋轢の鎮静化でした。承久の乱後、新補地頭職が急増、各地の公領荘園の地頭(或いはその代官)たちが、己たちの収益権「得分」以外の国衙や荘園領主に納められる租税をも着服するという非法濫暴によって、公領を統治する京都朝廷、荘園領主である公家や寺社との対立がより先鋭化するようになります。
事実上の武家の棟梁(執権職)の立場を有する武士・北条義時は、当然、武士/地頭の経済基盤や社会的地位を保証することが根本的責務であったのですが、承久の乱後、新たな上皇と天皇を自分が決め、親鎌倉派の京都朝廷をつくりあげた以上、『公平なる裁定者』責務とする執権・北条義時は、自分の仲間である新補地頭たちの公領や荘園での暴力的かつ勝手な略奪行為は、絶対に看過できるものではなかったのです。
『政治と人事は、バランスが一番重要である』という金言が、政界やビジネス界ではあるそうですが、これは中世期の北条義時在世時にも正鵠を射たものであり、裁定者の立場の義時も、同胞である武士(御家人・守護地頭)のみに肩入れし、京都朝廷ら伝統権力の主張言い分を退ける、というような偏った判定は許されません。
伝統権力と新補地頭との裁定者・北条義時は、上記の一例として、1222年(貞応元年)、伝統権力の有力者・石清水八幡宮が荘園領主である阿波国櫛淵荘(徳島県小松島市)の新補地頭職となった秋本二郎兵衛尉(厳密には、彼の代官)が、地頭の得分以外の収益をも着服する非法濫暴が甚だしく、領主である八幡宮が鎌倉幕府(北条義時)に地頭職の秋本を訴える訴訟問題がありました。
その裁定の結果、北条義時は、地頭職・秋本の濫暴を停止するべく、以下の如く下知状を秋元に対して発給しています。(注意:以下は筆者の超訳=拙い現訳であることをご了承くださいませ)
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『阿波国櫛淵別宮の地頭・秋元二郎兵衛尉の代官が、荘園の務めに背き、神民(注:石清水八幡宮)が代々所有している田畑を、地頭の取り分と称して横領(濫妨)し、農事を妨げた。(中略)地頭の所業、誠に自分勝手である。(中略)先例に従って、地頭の濫妨を停止し、農民を安堵させよ。以上、命令する。 陸奥守平義時(北条義時)より』(石清水八幡宮文書より)
上記の現代訳は、筆者の意訳で恐縮なのですが、要は地頭を事実上、総監督する立場にある執権・北条義時(当時は陸奥守に在職)は、伝統権力・石清水八幡宮が所有する荘園を管理する新補地頭・秋元二郎兵衛尉が犯した横領などの違法行為を強く戒め、現地の農民を大切にし、荘園領主である八幡宮の顔を立てるようにせよ。というように、社寺と地頭の仲裁に腐心しているのです。
この石清水八幡宮と新補地頭の訴訟問題は、正しく氷山の一角に過ぎず、この類の訴訟、荘園領主と地頭職の対立問題は、全国各地にも頻発しているものであり、先述のように、これらの起因は、承久の乱による大勝によって、東日本限定の鎌倉地方政権が、一躍にして全国武家政権に急成長したことにより、事実上の支配権を獲得した数多な公領荘園に、新補地頭を送り込んだため、旧来の荘園領主、その現地農民との軋轢が生じたためです。
因みに、前掲の阿波国櫛淵荘の訴訟問題は、有効的な解決はされず、結局、同荘地頭の秋本氏による非法濫暴は尚止まず、この訴訟発生から約60年間も紛糾することになったそうです。それにしても、なんて長期間の裁判でしょう。
承久の乱後、軍事力と警察権をはく奪された上、事実上、北条義時率いる鎌倉政権の隷属的な立場に置かれた京都朝廷、その連枝・直臣である皇族や公家、鎌倉より微弱な武力しか有しない社寺勢力からすれば、自身の経済基盤である公領荘園で非法濫暴を働く地頭職の暴走を止める唯一の有効手段は、彼らの総元締めである鎌倉執権の北条義時に訴えることでした。
承久の乱の1年後の1222年(貞応元年)から北条義時が没する1224年(元仁元年)の3年間、執権・義時は、前掲の新補地頭職の連中が巻き起こす非法濫暴の処理に忙殺されることになったのです。
最後の勝利者になった故の辛苦なのですが、1223年(貞応2年6月)、北条義時は配下の地頭職の利権を保全しつつも、公領荘園の所有者である伝統権力者たちの既得権益をも保証する折衷案を立て、それを京都朝廷に公認させ、天皇の命令、即ち官宣旨として、各地に下しています。
この法定は、『地頭職の得分率法(或いは新補率法)』と呼ばれ、荘園領主の既得権保護と急増した新補地頭職の権限を明文化することにより、横行している地頭たちの非法濫暴の抑止策を以下のように、打ち出しています。
◎得分率法の特徴点
⓵田畑11町(約11万平方メートル)につき、「1町(約1万平方メートル)の田畑」に加え、「別段5升(約7.5kg)の兵糧米徴収」を、地頭の得分(収益権)とする。
⓶その他、山野や海川で採れた産物については、荘園領主(本領家)と地頭で折半とする。
⓷罪人(犯過人)などから没収した財産の取り分については、国司(国衙)・荘園領主の取り分が3分の2、残り3分の1は地頭の取り分とする。
(参照:安田元久著 『北条義時』(吉川弘文館)文中より)
執権・北条義時(鎌倉政権)が、各地の地頭職(特に新補地頭に宛て)に下知した得分率法を読む限りでは、公領荘園の所有者たる伝統権力者側の既得権益の保護を強調しており、公領荘園の現場監督官である地頭職の武士(御家人)には一定の収益権と土地所有権を安堵する代わりに、彼らの非法濫暴を抑止し、『武士の本来の任務』を遵守することを命じています。武士の本来の任務とは、京都朝廷や社寺など伝統権力を尊重し、公領荘園の現場管理(主に農作業)に勤しみ、決められた租税を滞りなく国衙(朝廷)や荘園領主に納入すること、であります。
この北条義時と鎌倉政権首脳部が取り決めた得分率法を明文化することにより、地頭職の権限を、武士たちに認識させることに腐心しています。この得分率法をより鮮明化にして、『御成敗式目(貞永式目)』として法として纏め上げたのが、北条義時の後継者『北条泰時』であります。周知の通り、鎌倉幕府3代執権であり、北条義時・北条時頼(5代執権)と並んで、名執権と謳われる人物であります。
得分率法を鮮明化した北条泰時は、初代・武家法典と言うべき51ヵ条からなる『御成敗式目』で、「神仏を敬え」(第1条)、「決められた租税を朝廷や荘園領主に納入せよ」(第5条)、「京都朝廷の領地横領は禁止する」(第37条)、「朝廷公認の地主(名主)の農地横領を禁止する」(第38条)等々。
以上は、北条泰時が定めた御成敗式目の条項の一部のみを挙げさせて頂きましたが、泰時も武士たちに、伝統権力を尊重し、京都朝廷や荘園領主に決められた租税を納め、勝手に他人の土地や財産の強奪を止めよ、というように、武士本来の職務遵守を命じています。 北条泰時が、わざわざ上記のように「朝廷を敬え」「他人の財産を横取りするな」「国税をしっかり納めよ」と、ご丁寧に法規定するということは、それまで各地の地頭職(或いは守護)に就いている武士たちが、いかに横暴な『ピカレスク(悪漢)』(司馬遼太郎先生の鎌倉武士評)であったかが察せられます。
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北条泰時の父・北条義時のことについて少し戻りますが、中世史研究、特に東国武士団(鎌倉御家人)・鎌倉幕府政権の研究に多大な貢献された安田元久先生(学習院大学長などを歴任)は、鎌倉政権内で、確固たる北条一族の優位性を確立した最晩年の北条義時が持っていた今後の幕府についての運営理念を以下のように推測されています。
『義時個人の政治力のみに頼る専制的な執権政治から、合議制的なものへと脱皮する必要性を感じており、義時は、北条一門を中心とするところの合議的政治体制を、幕府の基本体制として制度化することを意図していたものと思われる。』
(以上、新装版『北条義時』「11. 執権政治確立への途」文中より)
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』内でも、小栗旬さん演じる主人公・北条義時が、3代鎌倉殿・源実朝(演:柿澤勇人さん)を蔑ろにするほどの専制独断ぶりが描かれていますが、これは史実通りであり、義時(その先代である北条時政も含む)は、謀略を駆使することにより、同胞の有力御家人を滅ぼすことにより、政所別当・侍所別当を兼任し、鎌倉政権の政治軍事を独占することにより、13世紀の日本に出現した「武士の世」の礎を築き上げました。
1 「源頼朝に従っての東国武家政権(地方政権)の確立」
2 「日本史上初の武家政権に属する鎌倉御家人同士の相剋」
3 「鎌倉政権内での専制的権力の掌握」
4 「後鳥羽上皇率いる官軍の撃破。史上初、賊軍が官軍に完勝する」
5 そして「名実ともに全国政権となった鎌倉幕府の基盤づくり」
簡潔に北条義時の生涯を辿っていくと、主に上記の5項目が、義時人生の主題だったと思えるのですが、一人の生涯で、これほどの政治的闘争、大仰に言えば、日本史の転換点を複数も経験したこと自体、稀有のことであります。
先ほどから、何度も触れさせて頂いたように、全国政権となった武家政権の足場固めに邁進している最中、北条義時は、1224年(元仁元年6月13日)に62歳で死去します。法名「徳崇大居士」。
この後、北条義時が多くの宿敵を葬って築き上げた北条執権体制が主導する全国政権・鎌倉幕府は109年間続くことになりますが、この政権体制を創設したのを義時とするなら、その体制強化をしたのが、3代執権・北条泰時であることは間違いありません。
「ローマは、1日にして成らず」であり、どんな組織・政権でも決して一代では成立しないものであり、何世代にも渡って徐々に構築されていくものである、ということは東西の歴史が証明しています。
鎌倉幕府を武家政権の参考づくりにしたとされる17世紀初頭の江戸幕府を創設した初代将軍・徳川家康(創業者)にも、次代に守成型のリーダー2代将軍・徳川秀忠が存在していたからこそ、後々の江戸幕府主導による幕藩体制は確固たるものになったのであります。鎌倉幕府の北条泰時には、江戸期の徳川秀忠と同じく「守成型リーダー」という雰囲気があります。(尤も、北条泰時は和田合戦や承久の乱で大将を務めるほどの戦上手である反面、徳川秀忠は戦下手が定評でしたが)
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上記箇条書の5「鎌倉幕府の基礎づくり」というのは、厳密に言ってしまえば、北条義時はそれを全うすることなく、道半ばで斃れた、というのが事実に近いものであり、本格的に鎌倉幕府の政権づくりが始まるのは、北条泰時からであります。
次の記事では、父・北条義時から武家政権の運営を引き継いだ3代執権・北条泰時を含める義時の子世代のことについて追っていきたいと思います。
因みに、代々北条執権家(惣領)を『得宗家(とくそうけ)/徳崇(とくすう)』と呼ばれることは周知の通りでございますが、この呼称は、2代執権・北条義時の法名『徳崇』から由来しています。
(寄稿)鶏肋太郎
・時代の改革者・源頼朝vs天才・源義経の完全なる対立『京都朝廷』に対する認識のズレ
・源頼朝と源義経との確執の発端『立場』に対する認識のズレ
・源頼朝と東国武士団たちの挙兵の目的は「平氏討滅」と「西国政権」からの独立戦争であった
・源頼朝と東国武士団の政治スローガン天下草創と文治の勅許
・鎌倉幕府3代執権・北条泰時~新生「鎌倉殿の13人」こと評定衆を創設した名執権
・鶏肋太郎先生による他の情報
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