戦国時代・江戸時代の武将、城郭など
真田信繁(真田幸村)ゆかりの「春日山城」の諸問題~構造(縄張)と調査・整備状況から~
「春日山城」の構造(縄張)現在、「春日山城」の遺構は春日山を中心に60万㎡以上の面積に広がり、きわめて大規模なものである。標高約180mの山頂の「実城」(本丸)を核とする本城地区を中心に、その周囲の4㎞内を固めている砦・番所地区、城内家臣屋...
戦国時代・江戸時代の武将、城郭など
「春日山城」の構造(縄張)現在、「春日山城」の遺構は春日山を中心に60万㎡以上の面積に広がり、きわめて大規模なものである。標高約180mの山頂の「実城」(本丸)を核とする本城地区を中心に、その周囲の4㎞内を固めている砦・番所地区、城内家臣屋...
築城時期「春日山城」(新潟県上越市)は、室町時代・戦国時代・江戸時代初期の戦乱の中で、越後(現新潟県)の守護代長尾氏・戦国大名上杉氏・近世大名堀氏の本城として機能し、1605(慶長10)年に廃城となった。その築城時期について、もっとも早い時...
武田氏滅亡後の真田氏の動向と信繁真田信繁の父・真田昌幸は1582(天正10)年3月に武田家が滅亡すると織田信長に服属した。昌幸は信濃佐久・小県2郡と上野国を管轄した滝川一益の与力となり、「厩橋城」に母・恭雲院と次男で当時11歳の弁丸(信繁)...
「龍口寺」の大書院江ノ島からみて北東の高台にある寂光山「龍口寺」は、1337年(延元2年)に日蓮宗の開祖である日蓮の弟子日法が、「龍ノ口法難の霊跡」として一堂を建立したのが始まりとされている。「龍ノ口法難」とは、1271年(文永8年)に日蓮...
「新府城」の構造「新府城」は 1581(天正9)年、真田昌幸らを普請奉行として築城された。築城経緯等については、真田昌幸が築城に関わった「新府城」~築城背景を探る~を参照いだきたい。城の構造は、山頂の本丸を中心に、西に二の丸、南に西三の丸と...
「新府城」の概要「新府城」は韮崎市の北方、「七里岩」の台地南端の小山に築かれた戦国時代末期の山城である。「七里岩」は八ヶ岳の火砕流によって形づくられ、長野県境から韮崎までの釜無川左岸に約30㎞にわたり高さ70m前後の急な崖が続く。その台地上...
上野・白井城「白井城」は群馬県渋川市白井に位置する室町時代から江戸時代初期の城郭である。利根川と吾妻川の合流地点、吾妻川側の断崖上に築かれ、越後(新潟県)から関東平野への出入り口を抑える要衝であった。「白井城」へのアクセスは、関越自動車道の...
はじめに真田幸綱(幸隆)は、1541(天文10)年5月の海野平の戦いで敗北すると、海野一族ともに上野(こうずけ)国に逃れ、「箕輪(みのわ)城」の城主・長野業正(なりまさ・業政とも)のもとで3年間ほど亡命生活を送ったとされている。「箕輪城」は...
はじめに真田一族の主な城郭には、室町時代からの「真田本城」・「松尾古城」(長野県上田市)、武田信玄の幕下となった真田幸隆が1551(天文20)年に攻略し本拠とした「戸石城」(長野県上田市)、1563(永禄6)年に攻略した新たな本拠とした「岩...
従来の真田丸真田丸は1615年の大坂冬の陣において、大坂城に入城した真田信繁(幸村)が造営した出丸である。信繁は作戦方針を巡り、後藤又兵衛らの浪人衆とともに、城から打って出る積極策を提案するが、大野治長らの豊臣家直臣に阻まれ籠城策に決まった...