真田幸昌(さなだ-ゆきまさ)は、1601年7月24日に真田幸村(真田信繁)の嫡男として九度山にて生まれた。通称は真田大助。
母は竹林院(大谷吉継の娘)と推定されているが、生年は1600年~1603年と諸説ある。
祖父・真田昌幸の名を逆にし、幸昌と命名された。
1614年(14歳)、大阪冬の陣では、父・真田幸村に従い大阪城へ入城し、真田丸にて共に戦っている。
前田利常・井伊直孝・松平忠直・藤堂高虎らが真田丸に殺到した際には、軍監の伊木遠雄と共に500を率いて真田丸から撃って出て、混乱する徳川勢を蹴散らした。
1615年の大阪夏の陣では、父と共に出陣すると、初陣ながら敵の武将を討ち取ったが負傷したともされ、豊臣秀頼を守るようにと真田信繁(真田幸村)から命じられ大阪城に戻った。
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1615年5月8日、大坂城が落城すると淀殿や豊臣秀頼が切腹。
真田大助(真田幸昌)は、速水守久らから脱出を勧められたが拒否し「我は真田左衛門佐信繁の倅なり」と叫び、大阪城の山王曲輪にて切腹し殉死した。
加藤弥平太の介錯を受けたとも、加藤弥平太と刺し違えたともされるが、享年は13歳から16歳と諸説ある。
また、真田大助は、大阪城を脱出して、薩摩に逃れたと言う説もある。
真田幸昌の伝承
別名は四郎兵衛、沖之丞とある。
そして、真田大助(真田幸昌)は、豊臣秀頼の子とされる天草四郎時貞(豊臣豊禎秀綱)を総大将にして、島原の乱を起こしたと言う伝説もある。
また、真田幸昌は、豊臣秀頼の子・豊臣国松と共に鹿児島に落ち延びたとする伝承もあり「芦塚中左衛門」と呼ばれ、墓が雲仙・旧山田村牧之内にある。
なお、島原では「中」が「十」と誤記されて「芦塚十左衛門」と呼ばれていた事になる。
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