穴山小助とは 槍の名手・真田十勇士

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 槍の名手・穴山小助(あなやまこすけ)は、穴山信光の長男で1568年生まれ。
 真田十勇士の設定では、実在した武田家親族衆・穴山梅雪(穴山信君)の甥となっている。

 物語では、3歳で母と死別し、また武田家が滅亡すると、穴山小助は父・穴山信光と共に、戦場を渡り歩く「傭兵」となった。
 戦が無い時は博打でお金を稼いでいたとされ、槍の名手と言う一方で、博打の名手としても名高い。




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真田幸村に見いだされる

 父・穴山信光親の後ろにて、槍を構えて臨む小助の姿に、戦場の兵士たちは微笑ましく見守り、そんな小助が参加した戦は、不思議な事に勝ち続けたため「小助は我が軍勢の守り神じゃ」という噂を生んだと言う。
 その話を聞いた真田幸村が、穴山小助を小姓として召し抱えると、与えられた仕事もよく果たして期待に応えたと言う。
 このように、穴山小助は真田十勇士の中でも、古くから真田幸村に仕えた武将である。
 真田幸村とも同年代で、体つきも容貌も似ていたとされる。

 1600年、石田三成関ヶ原の戦いで敗戦すると、真田幸村は紀州・九度山に蟄居となったが、その際にも、真田幸村の供をして、九度山で浪人生活の労苦をともにした。
 しかし、後に真田屋敷(真田庵)を出ると姫路に拠点を置き、漢方医をしながら諸国の動向を探るなどといった情報収集を行った。

 真田幸村の影武者としての活躍が多く、7人の影武者のリーダー格的な存在でもある。

 大坂冬では、真田幸村の影武者として真田の出丸から、徳川勢を迎え撃った。
 大坂の夏の陣では、最後の最後まで徳川家康の本陣目指して奮戦し「我こそは真田左衛門佐幸村なるぞ」と、大音声を発し、徳川方の勇士を討ち取った。
 しかし、徳川家康の本陣に切り込んだところで、旧武田家家臣・原隼人(真田幸村の旧友)と切り合いとなり、壮絶な討死をした。

 「真田幸村の首級」は徳川本陣にいくつか届けられたが穴山小助の首級が「本物の幸村」と認められたと言う。
 
 これは実際の話だが、大坂夏の陣の決戦前夜、5月6日の夜に真田信繁の子を何名かが、伊達家重臣・片倉重長(片倉重綱)の陣に保護を求めた
 その中に、のち片倉重長の継室となる真田幸村の三女・梅(阿梅)もいたが、保護を求めた際に「穴山小助の娘」という女性も同行していたという伝承がある。
 この話から、穴山小助は実在していたする説もある。
 保護された真田幸村(真田信繁)の次男・真田守信(当時は大八)は片倉家の居城・白石城で養育され、真田幸村の子の中で唯一真田姓を継いだ男児となっている。

 引用元:穴山小助 (穴山小介) 槍の名手  (真田十勇士)

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