1583年閏正月29日には、丸子城の戦いにおける真田昌幸からの感状が見受けられる。
1585年8月8日なは、御料所の百姓が年貢減免を訴訟した際に、検見の上談合して納入分が減少しないよう対応せよと、真田昌幸からの命を受けている。
1597年2月15日に、家督を飯島市之丞の子・飯島兵吉に譲る事を許すという真田昌幸の判物が現存する。
1600年12月13日、高野山に蟄居するため、真田昌幸と真田幸村が旅だった際には、池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵らと共に高野山に入った。
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また、1601年8月5日付で、真田信之が本領100貫文を安堵し、8月7日には鉄砲衆20名を預けているが、実質、家督を継いでいたとされる飯島兵吉が管理したものと推測する。
飯島市之丞が真田幸村と共に大阪冬の陣にて討死したあとは、真田信之は飯島正九郎に知行を与えている。