大谷吉治(おおたに-よしはる)は、大谷吉継の子として1581年に生まれた。母は不明。
大谷吉継の弟か養子だとする説もある。
名前については大谷吉胤、大谷吉勝の説がある。官位は大学助。
1597年、豊臣秀吉が病状の悪化した大谷吉継を見舞うと、大谷吉治が接待役を務めている。
1598年、豊臣秀吉が死去した際には、形見分けとして「鐘切りの刀」を受け取った。
1599年には、徳川家康の命を受けて、失脚していた石田三成の内衆と共に、会津討伐のため越前表まで出兵もしている。
その後、石田三成が父・大谷吉継に挙兵を表明したため、西軍に転換。
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1600年、関ヶ原の戦いでは父・大谷吉継と共に西軍に味方し、北陸にて前田利長勢を牽制して足止めしたあと、関ヶ原に転戦したが、小早川秀秋の裏切りにあい大谷勢は壊滅し、父・大谷吉継は自害。
この時、大谷吉治は逃亡を勧められて敦賀に落ち延び、その後は各地を転々とした。
弟・大谷頼継(木下頼継)と一緒に逃亡したが、途中ではぐれこの年に15歳で病死している。
1614年、大阪冬の陣の際には、豊臣秀頼・淀殿の呼びかけに応じて大阪城に入り、100名の部隊長に任命されている。
兄弟とされる竹林院が真田幸村の正室と言う縁で、真田幸村は義理の兄にあたる。
そのためか、大阪夏の陣では真田幸村の配下に加わり、道明寺の戦い、1615年5月7日の天王寺・岡山の戦いに参戦した。
しかし、徳川勢の先鋒・松平忠直との戦闘にて、14時30分頃、家老・本多富正の配下の者により討たれて討死した。
子の大谷吉之は戦後帰農したとされている。
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