概要
「浜松城」(静岡県浜松市)は三方ヶ原台地の最東南端、台地が天竜川の沖積平野に移る所に位置し、浜松駅より徒歩約20分である。
1570年(元亀元年)に徳川家康が「引馬(ひくま)城」を取り込んで築城し、1586年(天正14年)に「駿府城」(静岡県静岡市)に移るまで居城とした城である。
なお、引馬城の名称については「引間城」や「曳馬城」などがあるが、本稿では「日本城郭大系」における引馬城に統一する。
この間、1572年(元亀3年)12月、浜松城に武田氏の大軍が迫ると、徳川家康は織田信長からの援軍とともに城の北方の三方ヶ原で迎え撃つが大敗し、徳川家康は命からがら浜松城に逃げ帰った。
関ヶ原の戦い(1600年)後は徳川家とゆかりの深い譜代大名が城主を務め、水野忠邦をはじめとし江戸幕府の老中などの要職に登用される者も多く「出世城」と呼ばれた。
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現在、浜松城跡一帯は浜松城公園として浜松市立動物園・美術館などの娯楽・文化施設が建ち、市民の憩いの場となっている。
その中で往時の遺構として、本丸跡に野面積(のづらづ)みの天守台が遺り、1958年(昭和33年)にはその上に復興天守が建てられ、郷土博物館として利用されている。
また、浜松城公園の東、旧二の丸に「どうする家康 浜松 大河ドラマ館」が、2023年(令和5年)年3月18日に本格的にオープンした。
本稿では浜松城の縄張り(構造)の特徴や築城経緯について、引馬城の歴史などを踏まえて探究する。
浜松城の縄張り(構造)の特徴
浜松城の縄張り、つまり曲輪(くるわ)の配置は三方ヶ原台地の端という自然地形を巧みに利用し、西から東へ天守曲輪・本丸・二の丸があった。
また、天守曲輪の南西側に西端城(にしはじょう)曲輪、その東側に清水曲輪があった。
文献史料や絵図をもとに整理した各曲輪の特徴は以下のとおりである。
【天守曲輪】
天守が建っていた天守曲輪は本丸から独立した曲輪で、東西約56m、南北約68mのいびつな多角形を呈している。
東側に天守門、西側の搦手(からめて)には埋門(うずみもん)が設けられ、周囲を鉢巻石垣と土塀で囲んでいる。
その土塀には屏風折(びょうぶおり)などの横矢や武者走りが設けられるなど防御性が高い構造となっている。
天守曲輪には16世紀末に築かれた野面積みの天守台が遺されており、天守台は1辺約21mのややいびつな四角形を呈している。
【本丸】
本丸は天守曲輪の東の一段低い場所に位置し、土塁と鉢巻石垣に囲まれていた。
建物は北側に富士見櫓(やぐら)、東側に本丸裏門、南東の隅に菱(ひし)櫓、そして南側には鉄門と多聞(たもん)櫓があった。
それらのうち富士見櫓は、現在、石垣と礎石の一部が遺るのみだが、前方に玉砂利の敷かれた御殿風の建物で、17世紀中ごろから後半に建てられたと考えられている。
また、多聞櫓は本丸と清水曲輪の間に位置し、東西に長い平屋の長屋で、東側には本丸への正門である鉄門が設けられていた。
【二の丸】
二の丸は本丸の東側に位置し、藩主が政務や日常生活を営む二の丸御殿のほか、東側に二の丸裏門、南側に本丸表門があった。
【三の丸】
三の丸は二の丸の南東に位置し、周囲を土塁と堀で囲まれ、重臣の屋敷が立ち並んでいた。
三の丸の南側には浜松城の正門である大手門があった。
【西端城曲輪】
西端城曲輪は天守曲輪の南西に位置し、土塁と土塀に囲まれ、南西側のほぼ中央に端城門があった。
【清水曲輪】
清水曲輪は天守曲輪の南側を細長く囲んだ帯曲輪で、その南側には中央部に土手(中土手)が設けられた空堀があり、曲輪の東側には清水門があった。
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以上の曲輪のほかにも、江戸時代の絵図には、城域の北東の端に円形の土塁がめぐる4つの区画が描かれ、「古城 侍屋敷」と記されている。
この古城とは浜松城の前身ともいえる引馬城の跡で、浜松城は中世の引馬城を取り込んで築かれたことが絵図で確認できる。
引馬城の概要
引馬城は浜松城の北東、現在、浜松市元城町にある東照宮一帯が城域であった。
今も円形土塁の一部が東照宮本殿の背後から東側に遺っており、空堀の跡も確認できる。
引馬城の築城者や築城年代については、様々な説があり断定できていないが、三河吉良氏の重臣巨海道綱(こみ みちつな)が築いたとする説が有力である(『宗長手記』)。
信頼できる史料に引馬城のことが頻繁に出てくるのは、斯波氏と今川氏の抗争に関するものである。
1515年(永正12年)、今川氏親(うじちか)が引馬城の斯波氏の被官・大河内貞綱(おおこうち さだつな)を滅ぼし、遠江(静岡県)の平定を完成した、という内容の記事がある。
この記事から、引馬城の城主は巨海道綱から大河内貞綱に代わっていたことが分かり、今川氏親による引馬攻めのあとは飯尾賢連(いのお かたつら)が城主となった。
それ以降、飯尾氏は賢連・乗連(のりつら)・連竜(つらたつ)と今川氏の支城・引馬城の城主を務めている。
1560年(永禄3年)、今川義元が桶狭間(おけはざま)で織田信長によって討たれると、三河(愛知県)の徳川家康が今川氏の下から離れ、遠江にも勢力を伸ばしてきた。
引馬城を守る飯尾連竜は徳川家康と通じて今川氏真(うじざね)と絶縁したため、引馬城は幾度か今川勢の攻撃を受けた。
引馬城は落城することはなかったが、1565年(永禄8年)、飯尾連竜は講和を餌に駿府で暗殺され、飯尾氏は滅亡した。
その後、引馬城の城代を務めた江間氏が内紛により滅亡すると、徳川家康は1568年(永禄11年)12月、重臣・酒井忠次(ただつぐ)を派遣して引馬城を手に入れたのである。
このことについて、『浜松御在城記』には「此時引間ノ城ニハ、酒井左衛門忠次ヲ被残置候由」と記されている。
浜松城の築城経緯
徳川家康は1569年(永禄12年)、今川氏真が籠っていた掛川城(静岡県掛川市)を攻略し、遠江を支配下に置くと、その拠点となる城を建てることにした。
当初、徳川家康は国府のあった見付(みつけ・静岡県磐田市)を選び築城工事を開始したが、それをとりやめて、翌1570年(元亀元年)6月、引馬城に入り築城工事を始めた。
この経緯については『当代記』に「家康公、此秋ヨリ翌春中迄、遠州見付城(城之崎城)普請在之、此六月、従見付浜松家康公移給、先故吉良飯尾豊前カ古城ニ在城、本城普請」と記されている。
また、『浜松御在城記』1570年(元亀元年)の項には「茲年ノ春、御普請出来ニツキテ、岡崎ヲハ、御長男竹千代様江譲リ、浜松ノ御城江御移リ被為成候」と記されている。
徳川家康は引馬城を西南方向に拡張する築城工事をおこない、その名称も「浜松城」と改めた。
徳川家康が居城としていた岡崎城を嫡子・徳川信康に譲り、遠江国・三河国経営の新たな拠点として浜松城が築城されたのである。
その後も浜松城は、1578年(天正6年)2月や1579年(天正7年)2月・10月、1581年(天正9年)2月9月に拡張・改修工事がおこなわれている(『家忠日記』など)。
徳川家康は1586年(天正14年)に駿府城に移るまで、この浜松城を居城とした。
この間、浜松城北方の三方ヶ原で武田信玄と戦って大敗するが、武田勝頼の滅亡後、その遺領を手にして駿河(静岡県)・遠江・三河・甲斐(山梨県)・信濃(長野県)の5ヶ国を領する大大名に成長した。
そこで、浜松城では5ヶ国の領国経営の本拠としてふさわしくないことからか、徳川家康は駿府城に居城を移したのである。
近年、浜松城では発掘調査により貴重な成果が蓄積されているが、2014年(平成26年)の発掘調査で徳川家康の時期の遺構が初めて確認されている。
それは、本丸南側に設定した調査区(トレンチ)で発見された幅約11m、深さ約2mの素掘りの堀で、堀の断面には、人為的に埋めて整地した地層が確認されている。
16世紀後半の灰釉小皿(かいゆうこざら)などの遺物が出土しており、堀の特徴と出土遺物から徳川家康が浜松城に在城して時期(1570年~1586年)の堀である可能性が高いという。
今後の発掘調査の進展により、築城当初の浜松城の具体的な姿が解明されることを期待したい。
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<主な参考文献>
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
西ヶ谷 恭弘 1994年『戦国の城 目で見る築城と戦略の全貌〈下〉中部・東北編』学習研究社
西ヶ谷 恭弘 1999年『国別 戦国大名城郭事典』東京堂出版
平井 聖、他 1979年『日本城郭大系 第9巻 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社
<浜松城跡で徳川家康在城期の城郭遺構を確認!/浜松市
(寄稿)勝武@相模
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