山中城の解説~小田原攻めにおいて半日で落城した後北条氏の城郭~
山中城とは「日本百名城」に選定されている山中城(静岡県三島市)は、戦国時代末期の天文年間から永禄年間(1530年~1560年頃)に関東の覇者・後北条氏によって築城された。箱根外輪山の西側の中腹、東海道沿いの標高580mの尾根上の東西500m...
山中城とは「日本百名城」に選定されている山中城(静岡県三島市)は、戦国時代末期の天文年間から永禄年間(1530年~1560年頃)に関東の覇者・後北条氏によって築城された。箱根外輪山の西側の中腹、東海道沿いの標高580mの尾根上の東西500m...
はじめに真田信繁(幸村)の遺児である阿梅は、大坂の陣ののち伊達政宗の重臣・片倉小十郎の側室となり、その弟の真田大助も伊達家の家臣となった。片倉家が代々城主を務めた白石城は謎の城と言われるほど、築城主や築城時期、二階櫓から三階櫓への改築の有無...
はじめに真田信繁(真田幸村)の遺児である阿梅や真田大八(片倉守信)が過ごした白石城は、明治維新を機に廃城となった。現在は1992年(平成4年)からの復元工事により、天守の代わりをつとめた三階櫓などが復元されている。築城から廃城まで主なものだ...
真田信繁(真田幸村)の遺児である阿梅とその弟・真田大八(片倉守信)の墓が宮城県白石市の「功徳山当信寺」にある。1615(慶長20)年の大坂夏の陣において真田信繁(幸村)が討死した後、阿梅は伊達政宗の重臣である片倉重長の継室となり、真田大八は...
はじめに1600(慶長5)年10月、関ヶ原の戦いで敗北した西軍に与した真田昌幸・信繁(幸村)父子は九度山(くどやま)に配流となった。高野山・「蓮華定院」に身を寄せて間もなく、その年の冬に庵を九度山に移した。九度山での配流生活は、家臣16名を...
三好三人衆の一人で、真田十勇士の三好清海入道のモデルと言うと、信長の野望シリーズを遊んでいる方はすぐに「三好政康」の名前が出てくると思いますが、三好宗渭(みよし-そうい)の本名は三好政勝(みよし-まさかつ)が正しい名前のようで、弟には三好為...
はじめに1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで、真田昌幸・信繁(幸村)父子は西軍(石田三成)に与し、「上田城」(長野県上田市)で東軍(徳川家康)の徳川秀忠の西上を阻止するなど貢献したが、西軍は敗れた。戦後、昌幸・信繁父子は死罪に処せられるとこ...
はじめに豊臣秀吉が晩年の城郭である「伏見城」(「指月伏見城」と倒壊後の「木幡山伏見城」)の築城には、真田昌幸・信幸・信繁(幸村)父子もそれぞれ人夫や用材などを負担するなど築城に関わった。その経緯については豊臣秀吉晩年の城・「伏見城」~築城経...
概要豊臣秀吉が晩年に京都市伏見に築城した「伏見城」(京都市伏見区)は、宇治川北岸の泰長老の辺りに築城した「指月伏見城」、その倒壊後に北方の木幡山(こはたやま)に築城した「木幡山伏見城」がある。「指月伏見城」は1592(文禄元)年8月に、東山...
概要真田昌幸・信幸・信繁(幸村)父子は、1592(文禄元)年から1598(慶長3)年までの朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)において豊臣秀吉が本陣とした「名護屋城」(佐賀県唐津市)に滞在した。「名護屋城」は玄海灘に突き出した波戸岬の付け根に当た...