考古学からみた躑躅ヶ崎館~大手周辺の発掘調査と整備を中心に~
整備計画と発掘調査城郭を調査する方法には、文献史料や絵図類などを読み解く文献調査や、現地に赴き現状の遺構を観察する縄張調査、そして発掘調査で発見された遺構や遺物を分析・考察する方法がある。躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)は1519年(永正16年)...
整備計画と発掘調査城郭を調査する方法には、文献史料や絵図類などを読み解く文献調査や、現地に赴き現状の遺構を観察する縄張調査、そして発掘調査で発見された遺構や遺物を分析・考察する方法がある。躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)は1519年(永正16年)...
高野山にある「蓮華定院」は真田昌幸と真田幸村が最初に高野山に幽閉された際に蟄居した真田家ゆかりの寺院です。蓮華定院(れんげじょういん)は、室町時代の1523年に長野の小県・佐久地方の豪族と宿坊契約が結ばれたと言う記録があります。その縁で海野...
躑躅ヶ崎館山梨県甲府市に所在する躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、1519年(永正16年)の築城から1581年(天正9年)年に新府城に移転するまでの約60年間、武田信虎・武田信玄・武田勝頼の3代の居館となり、領国経営の中心であった。武田氏...
真田幸隆とは真田幸隆(さなだゆきたか)は、戦国時代に武田家の重臣となった武将。信濃小県郡(長野県東御市)の豪族・滋野一族の本家筋となる海野棟綱(海野信濃守棟綱)の子(諸説あり)として、永正十年(1513年)に生まれた。そして、山家郷真田(長...
真田昌幸とは真田昌幸(さなだ-まさゆき)は、戦国時代の1547年に真田幸隆の3男として生まれた。幼名は真田源五郎。母は河原隆正の妹・恭雲院(または阿続方)。この1547年頃は、父・真田幸隆が、甲斐の武田晴信(のちの武田信玄)の軍門に加わって...
躑躅ヶ崎館の概要真田信綱(幸隆)・信綱父子の屋敷があった躑躅ヶ崎(つつじがさき)館(山梨県甲府市)は、戦国時代に甲斐国(山梨県)の守護・武田氏の本拠地として築かれた。躑躅ヶ崎館は県中部の甲府盆地の北端、南流する相川の扇状地上に位置する。東側...
真田幸綱(幸隆)・信綱の屋敷跡躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、甲斐国古府中(山梨県甲府市)にあった甲斐国守護・武田氏の居館で、武田信玄らの領国経営における中心地であった。現在、館跡地には武田神社があり、「武田氏館跡」として国の史跡に指定...
1585年(天正13年)第一次上田合戦大久保忠世・鳥居元忠の率いる1万の徳川軍を2千の寡兵で勝利したことから全国に轟かせた真田昌幸。そして、15年後の1600年(慶長5年)に両軍は、上田で再び戦うことになります。スポンサーリンク (adsb...
深沢城とは深沢城(静岡県御殿場市)は馬伏(まぶせ)川と抜(ぬけ)川とが合流する地点、若干の起伏をともなう平地部に位置する。周囲の地形は城を築く場所としては相応しくなさそうだが、足柄地方や甲州から駿東方面へ入る交通の要衝であった。深沢城は15...
山中城の概要山中城は1568年(永禄11年)頃に、後北条氏により相模(現神奈川県)と駿府・伊豆(現静岡県)国境をめぐる緊張の中で、東海道の抑えとして、あるいは駿河方面へ出陣する際の基地として築城された。その後、防衛力強化のために増築を重ね、...