おかねと石川貞清(石川光吉)~元・犬山城主
石川貞清(いしかわ-きよさだ)は、美濃出身の兄・石川一光の一族と言われ、石川光重の子ともあるが詳しくは分からない。 豊臣秀吉の使番である金切裂指物使番として、1590年の小田原攻めにて功績を挙げた。 初名は石川光吉と名乗っていたようだ。 ...
石川貞清(いしかわ-きよさだ)は、美濃出身の兄・石川一光の一族と言われ、石川光重の子ともあるが詳しくは分からない。 豊臣秀吉の使番である金切裂指物使番として、1590年の小田原攻めにて功績を挙げた。 初名は石川光吉と名乗っていたようだ。 ...
高梨内記は真田昌幸の家臣で、九度山に幽閉された際に、同行した家臣16人の1人です。そして、高梨内記の娘・采女(うめね)が、真田幸村(真田信繁)の側室となり、次女・於市と、3女・阿梅(おうめ)を産んだとされます。ただし、於市は早世し、阿梅(お...
真田之親(さなだ-ゆきちか)の生没年不詳。 真田幸村(真田信繁)の4男とされるが、母などは不明。 別名としては石田之親、石田権左衛門とある。 真田幸村が九度山で蟄居していた際に、百姓の娘に産ませた子とも伝わる。 ただし、大坂冬の陣の前には...
大阪冬の陣での最後の戦いである「天王寺・岡山の戦い」。いわば、戦国時代の終焉ともされる戦国最後の戦とも言えるだろう。豊臣勢は前日の戦いで、後藤又兵衛・木村重成・薄田兼相・塙直之など多数の勇将を失い、1615年5月7日の未明、徳川勢に対して大...
月刊誌「歴史人」2015年7月号を購入致しました。 雑誌を買ったのなんて、何年ぶりでしょうか? いつも電子書籍ばかりですからね。 ともあれ、私に取っては非常に珍しい買い物となりましたが、購入致しました理由は「本能寺の変」が特集だったから...
真田昌幸が最初、養子に入った武藤家に関して調べてみました。 甲斐の武藤家は、甲斐源氏である武田氏の庶流・大井氏からの支族であり、武田信玄の母・大井の方が、その大井氏の出身です。 すなわち、武藤家は武田家の親族衆です。 戦国時代の甲斐・武藤...
山梨県の長坂にある徳雲山龍岸寺は、真田一族である真田隠岐守信尹の墓所なのですね。 この真田信尹は、真田幸隆の4男とされています。 すなわち、真田信綱、真田昌輝、真田昌幸の弟となります。 1582年に武田勝頼が自決したあとは、真田昌幸とは別...
横谷幸重(よこや-ゆきしげ)は、通称を横谷左近と言い、真田忍者として知られる。 父は横谷惣右衛門。弟に横谷惣左衛門幸秀と、横谷庄八郎重氏がいる。 もともとは雁ヶ沢城を本拠とする土豪で、真田昌幸・真田信之の2代に仕えた。 出浦清種(出羽清種...
吾妻与惣左衛門(我妻佐渡守、吾妻佐渡守)は、真田幸村の家臣であった三井景国の家来です。 1615年、大阪夏の陣の際には、真田幸村の次男・真田大八と、阿梅・阿菖蒲・おかね、そして付き添い役となった穴山小助の娘が、京都に滞在していた伊達政宗の...
樋口角兵衛(ひぐち-かくべえ)は、樋口鑑久(樋口下総守鑑久)の子で、母は久野と言う。 この母・久野は、真田昌幸の正室である山手殿の妹とされる。 甲斐の甲府にいた際には、向かってきた暴れ馬を押しつけたという逸話がある。 武勇に優れた武将で、...