戦国時代・江戸時代の武将、城郭など
三好宗渭 真田十勇士「三好清海入道」のモデル武将
三好三人衆の一人で、真田十勇士の三好清海入道のモデルと言うと、信長の野望シリーズを遊んでいる方はすぐに「三好政康」の名前が出てくると思いますが、三好宗渭(みよし-そうい)の本名は三好政勝(みよし-まさかつ)が正しい名前のようで、弟には三好為...
戦国時代・江戸時代の武将、城郭など
三好三人衆の一人で、真田十勇士の三好清海入道のモデルと言うと、信長の野望シリーズを遊んでいる方はすぐに「三好政康」の名前が出てくると思いますが、三好宗渭(みよし-そうい)の本名は三好政勝(みよし-まさかつ)が正しい名前のようで、弟には三好為...
はじめに1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで、真田昌幸・信繁(幸村)父子は西軍(石田三成)に与し、「上田城」(長野県上田市)で東軍(徳川家康)の徳川秀忠の西上を阻止するなど貢献したが、西軍は敗れた。戦後、昌幸・信繁父子は死罪に処せられるとこ...
はじめに豊臣秀吉が晩年の城郭である「伏見城」(「指月伏見城」と倒壊後の「木幡山伏見城」)の築城には、真田昌幸・信幸・信繁(幸村)父子もそれぞれ人夫や用材などを負担するなど築城に関わった。その経緯については豊臣秀吉晩年の城・「伏見城」~築城経...
概要豊臣秀吉が晩年に京都市伏見に築城した「伏見城」(京都市伏見区)は、宇治川北岸の泰長老の辺りに築城した「指月伏見城」、その倒壊後に北方の木幡山(こはたやま)に築城した「木幡山伏見城」がある。「指月伏見城」は1592(文禄元)年8月に、東山...
概要真田昌幸・信幸・信繁(幸村)父子は、1592(文禄元)年から1598(慶長3)年までの朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)において豊臣秀吉が本陣とした「名護屋城」(佐賀県唐津市)に滞在した。「名護屋城」は玄海灘に突き出した波戸岬の付け根に当た...
朝鮮出兵の概要全国統一を果たした豊臣秀吉は明の征服を試み、1587(天正15)年、対馬の大名・宗義智を通して朝鮮に入貢と明への出兵の先導を命じたが拒否された。秀吉は肥前(佐賀県)の東松浦半島の北端に「名護屋城」(佐賀県唐津市)を築き、そこを...
概要豊臣秀吉の小田原攻めにおいて、北国勢に属した真田昌幸と信幸・信繁父子は「鉢形城」(埼玉県大里郡寄居町)攻めに参加した後、浅野長吉(長政)とともに「忍城」(埼玉県行田市)攻めに参加した。 「忍城」は室町時代中期に成田氏によって築城されたと...
概要豊臣秀吉の小田原攻めの際、北国勢に属した真田昌幸と信幸・信繁父子は、「松井田城」(群馬県安中市松井田町)・「箕輪城」(群馬県高崎市箕郷町)など上野(こうずけ)にある北条氏の城攻めで活躍した。その後も「鉢形城」(埼玉県大里郡寄居町大字鉢形...
片倉景綱とは片倉景綱(かたくら-かげつな)は、伊達政宗の家臣で軍師的な役割を担った重臣であるが「片倉小十郎」と言った方が分かりやすいだろう。片倉景綱(片倉小十郎)は、1557年に片倉景重の次男として誕生した。母は本沢真直の娘(本沢刑部真直の...
1589年(天正17年)10月、豊臣秀吉の裁定で真田昌幸の持ち城とした「名胡桃城」(なぐるみ-じょう)を北条氏が策謀によって奪うという事件がおきた。秀吉はこの事件をきっかけに1590(天正18)年3月から小田原攻めを開始、真田一族も前田利家...