【徳川家康と城】名古屋城の豪華絢爛な御殿建築~本丸御殿及び二の丸御殿・庭園の歴史と整備を中心に~

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概要

名古屋城(愛知県名古屋市中区)は、徳川家康が関ヶ原の戦い(1600年)の勝利後に「天下普請(ぶしん)」で築城し、明治維新まで徳川御三家の筆頭・尾張徳川家の居城であった。
名古屋城は本丸を中心に二の丸・西の丸・御深井(おふけ)丸・三の丸などの方形の曲輪と、馬出や桝形門などを巧妙に配置し、周囲を広大な堀で囲んだ堅固な平城である。
名古屋城は近世城郭の集大成とも言われており、往時はそれに相応しい多様な建物が立ち並んでいた。
本丸には、北西隅に天守(大天守・小天守)、中央部に本丸御殿が建てられ、北東・南東・南西には隅櫓が設けられ、多聞櫓が外周を取り囲んでいた。
門は南に南御門(表門)、東に東御門(搦手門)、北に不明(あかず)御門の3つの門があった。
二の丸は名古屋城の中でもっとも広大な面積を有し、その約3分の2は二の丸御殿と庭園が占めていた。

明治維新後、二の丸御殿などの多くの建物が取り壊される中、天守及び本丸御殿は昭和期まで保存されたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋大空襲で焼失した。
その後、天守は1959年(昭和34年)に再建され、本丸御殿は2009年(平成21年)1月から復元整備が始まり、2018年(平成30年)から全面公開されているが、二の丸御殿の復元整備はおこなわれていない。
本稿では、本丸御殿と二の丸御殿・庭園について、建築経緯やその後の変遷、復元整備の状況などについて解説する。




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本丸御殿

本丸御殿は、天守が完成をみた1612年(慶長17年)に建築工事が始まり、1615年(慶長20年)に完成した。
翌1616年(元和2年)には、尾張藩初代藩主・徳川義直(徳川家康9男)が駿府城(静岡県静岡市)から名古屋城に移り本丸御殿に入った。
本丸御殿は、尾張藩主の居館及び藩庁として使われたが、1620年(元和6年)に将軍が上洛する際の御成御殿として改修され、藩主の居館及び藩庁の機能は二の丸御殿に移った。
その後、3代将軍・徳川家光の上洛(1634年)に際して、前年の1633年(寛永10年)に宿泊所とすべく増築がおこなわれ、以後、将軍が上洛する際の宿泊所としての機能を有した。

本丸御殿の内部は、1615年(慶長20年)の建築当初は玄関・表書院(広間)・対面所・下御膳所(しもごぜんしょ)・孔雀(ぐじゃく)之間などの部屋があった。
これに加えて、1633年(寛永10年)には上洛殿(書院)・湯殿(ゆどの)書院・黒木書院・上(かみ)御膳所などが新たに増築された。
各部屋は、その格式や用途によって天井や欄間、飾り金具、障壁画などの装飾や意匠が異なり、主な部屋の特徴は以下のとおりである。

【玄関】
玄関の車寄せの屋根は、室町将軍邸と同様に唐破風(からはふ)で、黒漆塗りに金の金具が付くという格調高いものである。
襖(ふすま)や壁には金地の障壁画「竹林豹虎(ちくりんひょうこ)図」が描かれており、「虎之間」とも呼ばれた。

【表書院】
表書院は広間とも呼ばれ、本丸御殿が藩主の居館であったときは正式に藩主に謁見する際に用いられた。
上段之間は藩主・徳川義直が座る最も格式が高い部屋で、狩野派の嫡流・狩野貞信(かのうさだのぶ)の筆による「梅松禽鳥図」は重要文化財に指定されている。

【対面所】
対面所は、初代藩主・徳川義直が身内や家臣との私的な対面や宴席に用いた部屋である。
上段之間・次之間の障壁画「風俗図」には京都や和歌山の四季の風物や名所、風俗が描かれ、天井は豪華な折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)である。

【上洛殿】
1634年(寛永11年)の3代将軍・徳川家光の上洛に先立ち、その前年に増築された部屋で、江戸時代には「御成(おなり)書院」と呼ばれていた。上洛殿は狩野探幽(かのうたんゆう)作の「帝鑑図(ていかんず)」や「雪中梅竹鳥図(せっちゅうばいちくちょうず)」などの障壁画や装飾は、細部まで贅の限りが尽くされ、本丸御殿で最も豪華絢爛(けんらん)な部屋である。

【湯殿書院】
湯殿書院は将軍専用の浴室で、外にある釜で湯を沸かし湯気を内部に引き込むサウナ式蒸風呂である。建築当時の床は排水のために傾き、排水溝が設けられていたが、使用されなくなって以降は水平に改造されたと考えられている。

【黒木書院】
黒木書院は清須城(愛知県清須市)内にあった徳川家康の宿館を移築した建物であると伝えられている。
本丸御殿の各部屋は総ヒノキ造りであるが、黒木書院のみは良質な松材(まつざい)が用いられており、その色から黒木書院と呼ばれるようになったという。

以上のように、本丸御殿の各部屋は格式や用途によって天井や欄間、飾金具、障壁画などのつくりや意匠は多様である。
これは江戸時代初期に完成したという建築様式である「武家風書院造」の特徴であり、名古屋城の本丸御殿は二条城(京都市中京区)の本丸御殿に先立つ高い格式を誇った御殿建築であった。

本丸御殿は明治維新後、名古屋鎮台本部や皇族の行幸啓(ぎょうこうけい)の際の宿泊所として使用された。
1929年(昭和4年)に国宝保存法の施行に伴い、本丸御殿は天守などの建物とともに城郭として初めて旧国宝に指定された。
1942年(昭和17年)には御殿内の障壁画345 面附16 面も旧国宝に指定されている。
しかし、名古屋空襲(1945年5月)で、本丸御殿は天守などの主要な建物とともに焼失した。
その中で、他の建物に移され戦災を免れた障壁画は、文化財保護法(1950年)の施行により重要文化財に指定されている。
こうした本丸御殿は2009年(平成21年)1月から、江戸時代の記録や焼失前の実測図、古写真などをもとに復元整備がおこなわれ、2018年(平成30年)に完了して一般公開されている。

二の丸御殿・庭園

二の丸御殿は名古屋城築城時に付家老の平岩親吉(ひらいわ ちかよし)の屋敷があった場所を中心に、1617年(元和3年)から建築が始まり1620年(元和6年)に完成した。
完成後、徳川義直は居館及び政庁としての機能を本丸御殿から移し、以後、二の丸御殿は尾張藩の政治の中心となり「御城」と呼ばれた。
二の丸御殿は藩主の代替わりなどの際に改修されており、最盛期には広大な二の丸の敷地の3分の2ほどを占め、その規模は本丸御殿の約3倍であったという。
その様子については『尾州二之丸御指(ごさし)図』(徳川林政史研究所所蔵)や『中御座(ござ)之間北御庭惣絵(おにわそうえ)』などの絵図から、御殿の南西側が藩の公的な政庁である「表」、北東側が藩主の私的な空間である「奥」として利用されたものと考えられるが、改修の詳細は不明である。

1873年(明治6年)に名古屋城が陸軍省の所管になると、二の丸御殿や向屋敷(稽古場・矢場・馬場など)をはじめ、二の丸の建物は取り壊され、その跡には歩兵第六連隊の本部や兵舎が建てられた。
終戦後、旧兵舎など連隊の建物は名古屋大学の施設として利用された。
名古屋大学の移転(1962年)後は、1964年(昭和39年)に二の丸の南部に愛知県体育館が建てられた。

二の丸御殿の北側に造営された二の丸庭園は、18世紀初めの享保年間(1716年~1736年)に改修され、池や築山(つきやま)、茶室などが配置された中を巡る回遊式庭園になったという。
その後、文政期(1818年~1830年)に第10代藩主・徳川斉朝(なりとも)によって再度大改修がおこなわれ、現在の東庭園まで拡張され、茶屋や園池も整備された。
こうして二の丸庭園は、藩主専用の庭園として最大の規模を誇ったが、明治期に二の丸御殿とともに大半が取り壊され、跡地には兵舎が建てられた。
ただし、庭園の中核であった北西部分は残り、その南には新たな前庭も整備され、1953年(昭和28年)に前庭を含めた二の丸庭園の一部が名勝に指定された。
その後の発掘調査で庭園跡が良好な状態で保存されていることが確認され、2018年(平成30年)に庭園のほぼ全域が名勝の追加指定を受けた。

二の丸御殿・庭園の整備計画

二の丸御殿は、尾張藩主の居館及び藩庁として機能し、名古屋城の中枢であったが、本丸御殿のような復元整備はおこなわれていない。
『特別史跡名古屋城跡保存活用計画』(2011年5月、名古屋市)によると、将来的には愛知県体育館を移転し、二の丸御殿や向屋敷の復元整備や地下遺構の表示などの特別史跡にふさわしい整備を検討する、としている。
なお、現在、徳川美術館(名古屋市東区)の第2~5の展示室では二の丸御殿内の「猿面茶屋」、鎖の間・書院、能舞台等が部分的に再現されて展示されている。

一方、二の丸庭園は1975・1976年(昭和50・51年)の発掘調査で「北御庭」の園池の東端や「東御庭」の「霜傑(そうけつ)」(茶屋)の跡、暗渠(あんきょ)、南池跡などの庭園遺構が検出された。
この結果、『御城御庭(おしろおにわ)絵図』(名古屋市蓬左文庫所蔵)に描かれた庭園の一部が地下に保存されていることが確認された。
その成果に基づき遺構の展示を含めて東庭園が整備されて、1979年(昭和54年)に公開された。
2013年(平成25)年に名古屋市が『名勝名古屋城二之丸庭園 保存管理計画書』を策定し、二の丸庭園の保存管理・修復整備の方針を定め、この方針に基づく保存整備に伴う発掘調査が継続的におこなわれている。

なお、2009年(平成21年)から名古屋城の天守を木造で復元することが計画されているが、文化庁から許可されていないことや、木造復元に伴う耐震耐火やバリアフリーなどの課題が山積している。
城のシンボルとしての天守の復元も必要なことではあるが、江戸時代を通じて藩主の居館及び藩庁として機能した二の丸御殿・庭園の復元整備を優先すべきではないだろうか。
本丸御殿に加えて二の丸御殿・庭園の復元整備を進めることが、名古屋城の魅力をより一層、高めることになるものと考える。




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<主な参考文献>
加藤 埋文 2021年『家康と家臣団の城』KADOKAWA
齋藤 慎一 2015年『徳川の城~天守と御殿~』江戸東京博物館
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖 1980年『日本城郭大系 第9巻 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社
特別史跡名古屋城跡保存活用計画
名古屋城調査研究報告

(寄稿)勝武@相模

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