【徳川家康と城】田中城の魅力を探究する~希少な円郭式城郭の歴史と縄張り(構造)の変遷から~

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概要

静岡県藤枝市の東に所在する田中城には、徳川家康の死因と関連して、次のような伝承が知られている。
徳川家康は1605年(慶長10)年、将軍職を徳川秀忠に譲って大御所となり、1607年(慶長12)年に駿府城(静岡県静岡市)に移った。
駿府城を居城とした徳川家康は田中城周辺でしばしば鷹狩りをおこない、15回以上も田中城を訪れたという。
1616年(元和2)年1月、鷹狩りの後に田中城に立ち寄った徳川家康は、激しい腹痛に見舞われた。
腹痛の原因は鯛を榧(かや)の油で揚げた天ぷらを食べすぎたことにある、と広く流布されている。
徳川家康は数日後に駿府城に戻り療養生活を送るが、同年4月に75歳の生涯を閉じた。




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田中城は、戦国時代に今川氏によって築かれた城を武田信玄(しんげん)が増築し、その後、武田軍と徳川軍とが攻防戦を繰り返した。
江戸時代は田中藩の藩庁として譜代大名10家が入れ替わり城主を務め、明治維新後に廃城となった。
田中城の縄張り(構造)は、低い丘陵の頂部に方形の本丸を配置し、それを中心軸として二の丸・三の丸が同心円状に巡る「円郭式」と呼ばれるものである。
現在、田中城跡には、本丸及び二の丸跡に西益津(にしましづ)小学校が、三の丸には西益津中学校が建っている。そのため、遺構の保存状況は良好ではないが、水堀と土塁の一部が円形に残り、円郭式の縄張り(構造)を想像することができる。

現在の田中城は、城内にあった建物のうち、本丸櫓(やぐら)、茶室、仲間(ちゅうげん)部屋・厩(うまや)、長楽寺村郷蔵(ちょうらくじむらごうくら)などが、城の南東隅にあった旧下屋敷跡に移築され、「史跡田中城下屋敷」として整備・公開されている。
本稿では、こうした田中城の戦国時代から江戸時代までの歴史と縄張り(構造)の変遷について、絵図等の資料を基に探究する。

戦国時代の田中城

田中城は1537年(天文6年)に駿河(静岡県東部)の今川氏によって築かれた徳之一色(とくのいっしき)城が前身とされている。
田中城が文献史料に初めて登場するのは、『甲陽軍鑑』の1570年(永禄13年)正月条である。
そこには「藤枝とくのいつしきあけてのく、是は堅固の地なりとて馬場美濃守に被仰付、馬だしをとらせ、田中城と名付、暫番手持也」という記述がある。
武田軍が今川領国に侵入し、徳之一色城を落城させた後、武田信玄が馬場信春(のぶはる)に命じて馬出し(三日月堀)を増築させ、城の名を田中城と改称したという内容である。
田中城の増築工事が完了すると、武田信玄は山県昌景(やまがた まさかげ)を在城させて、周辺地域の支配を任せた。
なお、山県昌景は1572年(元亀3年)、武田信玄の上洛戦を前にして、田中城の城番を板垣信安(いたがき のぶやす)と交替している。

1573年(天元元年)、武田信玄は牧之原台地の北端に諏訪原城(静岡県島田市)、南端の片岡郷に小山城(静岡県吉田町)を構え、二つの城を南北に結ぶ線上に、今川氏の旧城に手を加えて支城網を設けた。
これは、駿河の西側、遠江(とおとうみ・静岡県西部)を領有する徳川家康に対抗するための方策で、田中城はその位置から支城網の中心的役割を担ったものと考えられる。

武田信玄没後の1575年(天正3年)5月、長篠(愛知県新城市)において、武田勝頼(かつより)が率いる武田軍は織田信長・徳川家康の連合軍に大敗して甲斐(山梨県)に退去した(長篠の戦い)。
そのとき、徳川家康は守備の手薄となった諏訪原城を8月に攻め落とし、西駿河への侵攻を進める中、田中城も徳川軍による攻撃を受けるようになった。
1582年(天正10年)2月、徳川軍は武田方の依田信蕃(よだ のぶしげ)・三枝虎吉(さえぐさ とらきち)が守る田の中城を包囲し、城内外で両軍が激闘を繰り返した。
しかし、江尻城(静岡市清水区)の城主で武田一門衆筆頭の穴山信君(のぶきみ・梅雪)が徳川方に寝返ったことで、田中城は孤立した。
同年3月1日、城主・依田信蕃は穴山信君に説得されて開城し、田中城には徳川家康の家臣の高力清長(こうりききよなが)が入城した。
1590年(天正18年)、徳川家康が関東に移封となると、駿河は豊臣秀吉の家臣の中村一氏(かじうじ)が領有し、田中城には中村一氏の家臣の横田村詮(むらあき)が在番した。

江戸時代の田中城

関ヶ原の戦い(1600年)後、駿河は再び徳川家康の領国となり、翌1601年(慶長6年)に酒井忠利(ただとし)が1万石を領して田中城主となった。
酒井忠利は、城域を三の丸の外側に拡張し、藤枝宿を城下町に取り込むなど、現在の田中城の姿に近い形に整備した。
酒井忠利が1609年(慶長14年)に川越(埼玉県川越市)に移封されると、以後、田中城周辺は徳川頼宣領(よりのぶ・1609年~1619年)、幕領(1619年~1624年)、徳川忠長領(1624年~1631年)、幕領(1631年~1633年)となり、田中城には在番が置かれた。

1633年(寛永10年)に松平(桜井)忠重(ただしげ)が入封した以降は、江戸時代の中期まで2万5千石から5万石の譜代大名がめまぐるしく交替して城主を務めた。
すなわち、水野忠善(ただよし)、松平(藤井)忠晴(ただはる)、北条氏重(うじしげ)、西尾忠昭(ただあきら)・忠成(ただなり)、酒井忠能(ただよし)、土屋政直(まさなお)、太田資直(すけなお)・資晴(すけはる)、内藤弌信(かずのぶ)、土岐頼殷(よりたか)・頼稔(よりとし)である。
1730年(享保15年)7月、本多正矩(まさのり)が上野国沼田(群馬県沼田市)から4万石で入封し、以後、明治維新まで本多家が7代138年間、田中城の城主を務めた。

1868年(明治元年)7月、徳川宗家を継いだ徳川家達(いえさと)の静岡藩の立藩に伴い、駿府城代を兼ねていた田中藩主・本多正訥(まさもり)は安房国長尾に転封となった。
田中城には高橋泥舟(でいしゅう)が田中奉行として入城したが、1871年(明治4年)の廃藩置県により廃城となった。
廃城後、田中城の多くの建物が競売にかけられるとともに、土塁は崩され、堀も埋め戻されて田畑や宅地に変わっていった。
御殿の建物も改修されて学校の校舎として使われていたが、藤枝農学校(現・県立藤枝北高等学校)に移築されて、最後まで残されていた御殿の玄関も火事により焼失した。

絵図からみる縄張り(構造)等の変遷

武田氏時代の田中城は、方形の本丸を中心として、その周囲に二の丸・三の丸を同心円状に配置した円郭式の縄張り(構造)で、二の丸・三の丸の各虎口の外には、丸馬出し(三日月堀)が設けられたた。
田中城は日本城郭史において希少な円郭式ということからか、多くの絵図が残されており、それらを時系列に整理する。
                                                                                                                                                        
まず、田中城の初期の姿を描いたとみられる絵図には、三の丸までを石垣を伴わない堀と土塁だけの造りの城として描かれている。
その中で、肥後(熊本県)・細川家旧蔵の「駿河田中城御殿之指図」(永青文庫蔵)は、田中城の最も古い時期の姿を示してものであるという。
この絵図に描かれている本丸の土塁や「御館」(以下、「御殿」という)、そして北側の堀の位置は、発掘調査で検出された遺構とも合っているという。
その他の絵図も含めて古い時期の絵図は、丸馬出し(三日月堀)の配置など武田流築城術の特色が強調されている。

次に、1601年(慶長6年)に城主となった酒井忠利の時期に、田中城は三の丸の外側に円形の外堀と土塁が設けられて拡張されている。
その規模は東西780間(約1.4km)、南北820間(約1.5km)となり、総面積は武田氏時代の約3倍となり、現在の姿に近い姿となった。
拡張された田中城の様子は、1632(寛永9年)の年号がある上田・松平家旧蔵の「駿州田中城図」(藤枝市郷土博物館蔵)に描かれている。
この絵図は1633年(寛永10年)に松平忠重が田中城の城主になるにあたり、城や武家屋敷の普請の進捗状況を描いて江戸幕府に提出した絵図の控えと伝わる。




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絵図には本丸・二の丸・三の丸の土塁上に土塀が巡り、二の丸・三の丸の土塀には矢・鉄砲狭間(ざま)がみられ、本丸と三の丸には御殿が描かれている。
本丸の御殿は、大半が入母屋(いりもや)造りで、屋根の側面には木連格子(きづれごうし)と呼ばれる飾りがみられる。
三の丸の奥にみえる二階建ての御殿は、白壁に半円または三角形の窓をもち、屋根は唐破風、二階には禅宗寺院などにみられる花頭窓(かとうまど)にみえる。
これらの殿舎の屋根は瓦葺(かわらぶ)きではなく、柿(こけら)葺きか、檜皮(ひわだ)葺きのようにみられるが、伝統的な殿舎建築では、瓦葺きよりも柿葺き、檜皮葺きの方が、格式が高いとされている。
これらのことから、この絵図に描かれている殿舎は、1634年(寛永11年)に3代将軍・徳川家光が上洛したときに宿泊した殿舎と考えられる。
また、城の南側を流れる六間川以南にも屋敷地の表記があるが、この辺りは「新宿(しんしゅく)」と呼ばれている場所で、この時期までには整備されていたと考えられる。
なお、藤枝宿は多くの絵図に描かれており、絵図には寺院、鍛冶町や吹屋町等の職人町、白子町などの商人町がみられる。
       
その後も田中城の整備がおこなわれ、幕末期には藩の役所などで作成された城絵図が多く残されている。
1868年(明治元年)6月の添書きがある「駿州田中城内外之図」(個人蔵)をはじめとする絵図や『御城内所々間数』(藤井家蔵)などから幕末期の田中城の姿を知ることができる。
それらによれば、門は大手口・平島口・新宿口にそれぞれ2つの門があった。
櫓門には石垣が用いられ、土塁上には瓦塀や板塀が巡り、土塀には鉄砲・矢狭間が950か所以上に設けられていた。
なお、前述した「駿州田中城図」では三の丸に御殿が描かれていたが、幕末期では二の丸の一部とみなされていたという。

田中城の魅力

田中城は、今川氏が築いた徳之一色城を、武田信玄が駿河侵攻の際に増築をおこない、平城ではあるが、地形を巧みに利用して堅固な城とした。
戦国時代末期、駿河・遠江を巡る徳川軍と武田軍の激しい戦いの舞台となった。
武田氏の滅亡と関ヶ原の戦いを経て、田中城は幕藩体制下における田中藩の藩庁として明治維新まで機能したのである。
この間、田中城は増築や改修を重ね、土と堀からなる中世城郭から、櫓門に石垣を用いるなどした近世城郭へと変わっていった。

こうした田中城の最大の特徴は、同心円状に郭を配置した円郭式の縄張りで、日本城郭史上において極めて希少なものである。
方形の本丸を中心として、4重の堀と土塁で隔てられた環状の二の丸・三の丸と外曲輪が周囲を囲んでいた。
二の丸及び三の丸の外壁には、武田流築城術の特徴である丸馬出し(三日月堀)が、二の丸に2カ所、三の丸に4か所の計6か所に設けられ、現在、三の丸東側の1か所のみが現存する。
田中城は、円郭式の縄張り(構造)をもつ城の典型として、軍学者らが関心も持ったためか、田名k城に関する絵図が日本各地に多く残されている。
1996(平成8)年11月2日から1996(平成8)年1月26日にかけて、藤枝市郷土資料館で第10回特別展「田中城絵図」が開催され、図録も刊行された。
また、現在、田中城の模型が「藤枝市郷土資料館・文学館」と「史跡田中城下屋敷」に移築・復元されている本丸櫓に展示されている。

現在、田中城の本丸跡は西益津小学校、三の丸は西益津中学校の敷地となり、その周辺も宅地化されており遺構の多くは消滅している。
今後、開発に伴う発掘調査によって田中城に関する遺構や遺物が検出され、田中城の往時の様子がより解明されることを期待したい。

なお、田中城跡や「史跡田中城下屋敷」、「藤枝市郷土資料館・文学館」のアクセスは以下のとおりである。
【田中城跡】
JR東海道本線「西焼津駅」よりバス、「西益津中学校前」で下車してすぐ。
【史跡田中城下屋敷】
R東海道本線「西焼津駅」よりバス、「六間川」で下車して徒歩4分。
【藤枝市郷土資料館・文学館】
JR東海道本線「西焼津駅」よりバス、「蓮華寺池公園入り口」で下車して徒歩10分。




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<主な参考文献>
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖 1980年『日本城郭大系 第9巻 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社
藤枝市郷土博物館 1996年 『第十回特別展「田中城絵図」』

(寄稿)勝武@相模

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