滋野氏(しげの)と言うのは、信濃の小県郡の氏族で、上田よりちょっと東に行く「滋野」を本拠としたことからその名称で呼ばれたようです。
清和天皇の第4皇子である貞保親王(さだやすしんのう)が、信濃の海野庄(長野県東御市本海野)に移り住んで、その孫にあたる善淵王が905年に醍醐天皇から滋野姓を下賜されて、滋野善淵と称したのが始まりとされています。
しかし、貞保親王が信濃に行ったと言う記録は確認が取れず、更に言うと、善淵王とその父・目宮王の存在も疑わしい部分があるようです。
そうなると、もともと海野や滋野の在地豪族であった可能性はあります。
日本古代氏族人名辞典では、滋野氏は、紀氏(直氏)と同系氏族とされていて、紀伊国造と同系の楢原氏が初見だと考えられます。
やがて滋野氏は、滋野則広の嫡子・滋野重道が海野氏を名乗って分家し、更には根津氏・望月氏に分かれて、小県や佐久を滋野一族が支配しました。
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鎌倉時代になると、海野氏が鎌倉御家人として一族の中で一番目立っていますので、本家・滋野家を上回ったとも考えられます。
海野幸広(海野幸廣)が木曽義仲に従って、海野幸広の子・海野幸氏は源頼朝のもとに人質として赴いた、木曽義仲の嫡男・源義高(清水冠者)の従者として鎌倉に同行しています。
なお、真田家は滋野一族であると言われているだけで、確証は得られていません。
しかし、1400年に、小笠原氏が敗北した大塔の戦いでは、祢津・横尾・曲尾などと共に「実田」(さなだ)という武将の名が見られ、これが真田氏を表しているのではと最近では考えられています。