戦国時代・江戸時代の武将、城郭など
そもそも真田家の先祖とされる滋野氏とは?
滋野氏(しげの)と言うのは、信濃の小県郡の氏族で、上田よりちょっと東に行く「滋野」を本拠としたことからその名称で呼ばれたようです。清和天皇の第4皇子である貞保親王(さだやすしんのう)が、信濃の海野庄(長野県東御市本海野)に移り住んで、その孫...
戦国時代・江戸時代の武将、城郭など
滋野氏(しげの)と言うのは、信濃の小県郡の氏族で、上田よりちょっと東に行く「滋野」を本拠としたことからその名称で呼ばれたようです。清和天皇の第4皇子である貞保親王(さだやすしんのう)が、信濃の海野庄(長野県東御市本海野)に移り住んで、その孫...
真田昌幸と真田幸村が九度山で蟄居していた際に、作って売ったと言われてる「真田紐」とは、そもそも、どうゆうものだったのだろうか? 調べてみた。 まず、九度山では真田家の家族や家臣らも制作して、堺の商人を通じて販売し、得た収入を生活費の足しに...
真田幸村に関する電子書籍。このページは「広告」としてのご案内。【広告】楽天koboイーブックストア kobo 電子書籍にて格安販売中。【広告】Amazonのキンドル版は下記より格安販売中。真田幸村の武勇を誇ったその生涯スポンサーリンク (a...
真田発祥の地に関して、誤解の無いように記載したいと思います。信州の戦国武将である真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田幸村と言った、信州・真田家(滋野氏一族)の発祥は紛れもなく、上田にある真田の里です。しかし、そもそも「真田」と言う名前の発祥は...
真田昌幸の主な家臣一覧リストです。譜代の城主 ・矢沢頼綱(沼田城:叔父) ・常田隆家(常田城:従兄弟) ・丸子三左衛門(丸子城) ・禰津元直(禰津城・滋野一族) ・恩田越前守(森下城) ・鈴木主水(名胡桃城) ・大戸真楽斎(手子...
富沢豊前守(富澤豊前守)は、富沢出羽守の次男。生没年などは不詳。 次男でありながら武勇を誇ったようで吾妻七騎の旗頭として、長篠の戦い、沼田城攻略戦、対北条戦など真田昌幸の配下しとて参加。 一軍の将ではないものの、武勇伝ある猛者であり、真田...
大戸真楽斎(おおと-しんらくさい)の本姓は浦野氏で、信州の滋野氏の一族であり、手古丸城主(大戸城主)であった。 岩櫃城主・斉藤憲広の妹を正室に迎え入れ、羽尾氏と鎌原氏の領地争いでは、斉藤氏・羽尾氏に荷担して、鎌原氏と争った。 その後、真田...
恩田家は、上野・沼田庄恩田(群馬県沼田市)の土豪で、1561年の段階では沼田衆に、恩田孫五郎・恩田与右兵衛尉の名がみえ、上杉謙信の支配下に加わっていたとみられる。 1579年に北条氏政が沼田城を領国としたが、その後、武田勝頼の命を受けた真...
信州・真田家は、武田家臣団の中でも有力であり、また、江戸時代においてはも存続したことから、戦国時代からの家伝文書や藩政史料などは比較的残されている。 ただし、江戸時代の1731年に、江戸の松代藩邸が焼失した関係で、失われた文書も多く、よく...
真田清鏡(さなだ-きよあき)は、真田幸隆の庶子とされ、母は羽尾幸全の娘とも?ある。 ※羽尾幸全の娘は、真田幸隆の正室だったとする説もある。 真田幸隆が真田の里を追われた際、上野に逃亡中の1541年、海野幸全(羽尾幸全)の屋敷に寄宿していた...