おかねと石川貞清(石川光吉)~元・犬山城主

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 石川貞清(いしかわ-きよさだ)は、美濃出身の兄・石川一光の一族と言われ、石川光重の子ともあるが詳しくは分からない。
 豊臣秀吉の使番である金切裂指物使番として、1590年の小田原攻めにて功績を挙げた。
 初名は石川光吉と名乗っていたようだ。

 そのため、1590年、尾張の犬山城主となって12000石を拝領する出世を遂げて、豊臣家の信濃木曾の太閤蔵入地10万石の代官としても活躍したと言う。

 1591年からは、文禄の役の拠点となる肥前・名護屋城の普請工事も担当した。

 1600年、関ヶ原の戦いの折には、石田三成に協力して犬山城に籠城。
 当初、稲葉貞通、稲葉典通、稲葉方通、加藤貞泰、関一政、竹中重門らも犬山城に入ったが、徳川家康の重臣・井伊直政に通じて撤退したため、石川貞清は犬山城を放棄して、関ヶ原で宇喜多直家隊の右翼に布陣した。

 敗戦の将としての処分としては、池田輝政の助命嘆願や、犬山城籠城中に木曽の人質らを解放したことが評価され、黄金千枚で許されたが所領は没収。
 また、古銅砧形花生と言う豊臣秀吉が茶の席でもちいた花瓶(徳川美術館蔵)を、石川貞清が囲碁の勝負で勝った際にもらい受けたとされ、徳川家康に進呈して許されたともある。




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 石川貞清(石川光吉)は浪人すると宗休と称して、今日にて隠棲し、茶人・商人として金融業で生計を立てた。
 1613年に徳川幕府の500石旗本になったともあるが、不確定であり、子孫は商人になっている。

 商人として成功した石川貞清は、大阪の陣で討死した真田幸村の正妻・竹林院を生涯に渡り経済支援したとされ、真田幸村の7娘・おかね(於金殿)を妻に迎えたとされる。
 子に石川藤右衛門重正(宗雲)がいるが、おかねが産んだ子かはわからない。

 大坂夏の陣のあと、おかね(於金殿)は、阿梅真田大八穴山小助の娘と共に、一時、伊達政宗の家臣・片倉重長の保護を受けて、白石城に身を寄せていたと考えられ、その後、石川貞清に嫁いだようだので、恐らくは継室として入ったのであろう。

 そして、石川貞清(石川光吉)は、おかね(於金)の母、大谷吉継の娘(竹林院)も生涯に渡って援助したと伝わる。

 おかねと石川貞清は、父・真田幸村や母・竹林院、兄弟姉妹の墓を、京都の龍安寺大珠院に五輪塔を建立した。

 石川貞清は1626年閏(うるう)4月8日死去とも。(享年55とも?)
 おかねの没年・享年・墓所などは不詳。

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