【徳川家康と城】縄張りからみた「名古屋城」の特徴を探究する~シンプルで堅固な縄張り~

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概要

名古屋城(愛知県名古屋市中区)は、徳川家康の9男・徳川義直(よしなお)を初代とする徳川御三家の筆頭・尾張徳川家の居城であった。
関ヶ原の戦い(1600年)の後、尾張(愛知県西部)一国は徳川家康の4男・松平忠吉(ただよし)が領したが、1607年(慶長12年)に没した。
徳川家康はその遺領を徳川義直に継がせ、これまでの清須城(愛知県清須市)を廃し、新たに名古屋城の築城を決めた。
その場所は、名古屋市域中央部の「名古屋台地」と呼ばれる南北約15km、東西約3kmの洪積台地の北西端で、名古屋駅からは直線距離で約2.5kmの所である。

名古屋城の築城工事は1610年(慶長15年)から、西国大名20家が工事を分担した「天下普請(ぶしん)」で始まり、大坂の陣(1614年~1615年)を経て、元和・寛永年間(1615年~1644年)には完成した。
名古屋城は本丸・二の丸・西の丸・御深井丸(おふけまる)・三の丸からなる梯郭(ていかく)式で、縄張は築城名人・藤堂高虎(とうどう たかとら)が担当したが、徳川家康自らも関わったという。
現在、名古屋城は武家屋敷や寺社が建ち並んでいた三の丸は官庁街となっているが、城跡全域は国の特別史跡として保存・整備されている。

こうした名古屋城については、前稿は築城経緯や天守台、天守を中心にその特徴などを整理した。

【徳川家康と城】「天下普請」の城・名古屋城の築城~加藤清正による天守台の築造と天守の木造復元問題~

本稿では、名古屋城の縄張の特徴について、縄張り関係の絵図などをもとに探究する。

名古屋城の縄張りに関する絵図

名古屋城の縄張りに関する絵図は、築城準備の段階から多く作成され、今も大工棟梁を務めた中井正清(まさきよ)の子孫宅や徳川美術館、蓬左文庫(ほうさぶんこ)などに伝えられている。
本稿では準備段階の1609年(慶長14年)から1697年(元禄10年)の間に作成された、以下の5つの絵図を取り上げる。

【「なごや御城惣指図(さしず)」(中井家所蔵)】
「なごや御城惣指図」は築城工事時に設計などを指導した中井家に伝わる指図の1枚で、1609年(慶長14年)1月に徳川家康が実際に見学したときに作成された図と考えられている。
今の名古屋城とは深井丸北部、二の丸北部、大天守西部が異なるが、1610年(慶長15年)4月~12月の築城工事において地盤などの関係から変更されたのではと推定されている。

【「名古屋城普請丁場割之図(ちょうばわりのず)」(徳川美術館所蔵)】
「名古屋城普請丁場割之図」は1610年(慶長15年)4月頃に作成された石垣普請に関わる諸大名の分担箇所を記した図である。
この図では天守の西に櫓を設けることをやめ、天守と御深井丸を地続きとして西側にも入口を開く形としている。
また、天守台石垣の普請を務めた加藤清正を除く、19家の諸大名の分担箇所が記されており、分担箇所を承認した証である各大名の署名が確認できる。




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【「名古屋城普請町場請取絵図」(宮内庁書陵部所蔵)】
「名古屋城普請町場請取絵図」は1610年(慶長15年)4月から12月までの築城工事の際の割普請(わりぶしん)図である。
築城工事に関わった西国大名20家が分担した場所ごとに間数(まかず)や奉行の名が記載されている。
のちに変更された大天守・小天守以外は現状と完全に一致しており、天下普請の実情を示す最古の資料として貴重なもので、その後の二条城大坂城の割普請のもとにもなったという。

【「なごや御城之指図」(中井家所蔵)】
「なごや御城之指図」は1612年(慶長17年)1月から1615年(慶長20年)2月までにおこなわれた本丸天守及び本丸御殿の建築際の指図である。
1978年(昭和53年)におこなわれた本丸御殿跡の発掘調査で、小天守の南西部を除いてほぼこの図のとおりであることが確認されている。
小天守南西部の変更は1612年(慶長17年)6月から翌1613年(慶長18年)10月までの石垣普請工事の影響と考えられている。
また、1959年(昭和34年)の小天守再建工事に伴う調査では、この図どおりの石塁の痕跡が確認されている。

【「元禄拾年御城絵図」(名古屋市蓬左文庫所蔵)】
「元禄拾年御城絵図」は1697年(元禄10年)4月に尾張藩の作事方(さくじがた)がおこなった内郭全域の実測調査に基づいて作成された絵図である。
作成当初は大天守・小天守や隅櫓などの建築立面が「起こし絵図」(紙の建築模型)として仕立てられていたが、現在は失われている部分が多い。
詳細な寸法を知ることができる縄張図として貴重な絵図であり、ほかにも三の丸などの写しが伝えられている。

名古屋城の縄張り

名古屋城の縄張りは、四方を空堀で囲んだ本丸を中心として、その南東に二の丸、南西に西の丸、北西と北に御深井丸を配置した梯郭式で、各曲輪とも方形で直線状の単純な構造である。
西の丸西側と御深井丸の西側・北側、二の丸の北側は幅広い水堀が、二の丸の東側から西の丸の南側までは空堀と土塁が囲んでいた。
西の丸の南から二の丸の東にかけては広大な面積を有する三の丸が配置され、堀と土塁で囲まれていた。

本丸は、ほぼ正方形を呈し、北西隅に天守、中央部に本丸御殿が建てられた。
東北・東南・西南の3つの隅には隅櫓(すみやぐら)が設けられ、多聞(たもん)櫓が本丸の外周を取り囲んでいた。
3つの隅櫓は2層3階建てで規模は大きく、外観は入母屋造(いりもやづくり)の屋根に千鳥破風(ちどりはふ)や唐(から)破風が付くなど装飾性が高く、石落としも設けられている。
本丸の門は、南に南門(表門)、二の丸側に東門(搦手門)、北側の御深井丸との境に不明(あかず)門の3つがあった。
それらのうち、南門と東門は二重の門で構成された枡形を設けて、その外側に総石垣の巨大な馬出を配置した。
中でも表門枡形外側の大手馬出は特に巨大なもので、枡形に加えて多聞櫓(たもんやぐら)が巡らされていた。

本丸の南東に位置する二の丸は、北側で本丸搦手馬出、南側で本丸大手馬出と接している。
二の丸は名古屋城の中でもっとも広大な面積を有し、その約3分の2は二の丸御殿と庭園が占めていた。
二の丸の西と東には三の丸へつながる2つの門、東鉄(ひがしくろがね)門と西鉄門が設けられた。
いずれも二重の門で構成された枡形門で、多聞櫓で囲まれていたが、これ以外の二の丸の外周は土塀で囲まれていた。
北東・南東・南西にはそれぞれ隅櫓が、南面の中ほどに太鼓(たいこ)櫓が建てられ、また、北西隅に迎涼閣(げいりょうかく)、二の丸北面の中ほどには逐涼(ちくりょう)閣が建てられていた。
迎涼閣・逐涼閣は防御施設ではなく、南側に広がる二の丸庭園との関連で建てられた数寄屋(すきや)風の楼閣である 。

西の丸は本丸の南西に位置し、南側に枡形門である榎多(えのきだ)門があり、三の丸とつながっていた。
建築物は南西隅に未申(ひつじさる)隅櫓などが、北西隅に月見櫓が、西の丸の南面には多聞櫓が建てられていた。
また、西の丸内には6棟の米蔵が建てられ、食糧基地としての性格を有していたという。

御深井丸は本丸の西北に位置し、本丸と不明門で、本丸北側の塩蔵構(しおぐらがまえ)や西の丸とつながっていた。
しかし、不明門は普段は開けられることはなく、塩蔵構と西の丸とも狭い通路のみでつながり、極めて閉鎖的な曲輪であった。
水堀の外堀に面する北側には、西から東にかけて隅櫓や多聞櫓が建てられていたが、西北隅の戌亥(いぬい)隅櫓(「清州櫓」)は名古屋城最大規模を誇った。

三の丸は西の丸の南から二の丸の東にかけての広大な曲輪で土塁と空堀で囲まれ、曲輪内を横断する天王筋や二の丸に出入りする大名小路などの道が碁盤目状に広がっていた。
三の丸には上級武家屋敷や社寺が建てられ、西面に巾下(はばした)門、南面には西から御園(みその)門・本町門、東面に東門、北東に清水門の5つの門があった。
いずれの門も枡形門であったが、石垣は門付近のみで、そのほかは土居となっていた。

以上の本丸・二の丸・西の丸・御深井丸・三の丸に加えて、築城当初は城と城下町を惣構が計画されたが、大坂の陣により豊臣家が滅亡したことで、惣構の築造は途中で中止された。

防御性の高い堅固な縄張り

名古屋城の縄張りは、天守石垣台を築き上げた加藤清正と並んで築城名人として名高い藤堂高虎が担当したという。
藤堂高虎の縄張りは、方形の曲輪を並べ、空間を有効活用した単純な構造と、多聞櫓と幅広い堀、そして高石垣による堅固な防御性が特徴とされている。
こうした特徴のとおり、名古屋城の縄張りは戦国期の城郭の複雑な縄張りに比べて、直線と直角を基本とし、各曲輪はほぼ正方形を呈する極めてシンプルなものであった。
こうした単純明快な縄張りに様々な工夫を施すことで、攻められにくい強固な防衛網を構築していた。
その工夫として、西の丸の南に広大な三の丸を配置し、本丸の南と東に馬出を設け、本丸を囲む二の丸、西の丸、御深井丸は堀で囲み独立させることで大軍の進撃を妨げた。

三の丸は南北約600m、東西約1400mと広大な曲輪で、その周囲は深さ約100m・幅約20mの堀で囲み、堀の内側には高さ約8mに及び土塁を設けた。
三の丸の虎口(こぐち・城の出入り口)は5カ所にあったが、いずれも厳重な枡形虎口であった。
こうした三の丸の配置で、名古屋城の中枢部は大坂の陣で使用された最新の大砲でも射程圏外となり、大砲による砲撃を不可能とした。

三の丸を突破されても、二の丸と西の丸が互いに横矢を掛けられるずれた配置により、敵の侵入を防ぐことができた。
西の丸大手口である榎多門に敵が迫れば、二の丸から出撃して挟撃ができ、逆に二の丸大手口の西鉄門に迫った敵に対しては西の丸からの挟撃が可能であった。
それに加えて榎多門・西鉄門の左右には長大な多門櫓が続いており、防備の強化が図られていた。




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万が一、西の丸・二の丸へ敵が侵入してきた場合には、本丸の南と東に設けられた二つの巨大な馬出(大手馬出・搦手馬出)が敵の侵入を妨げた。
両馬出ともに狭い土橋が唯一の通路で、そこに侵入しできたとしても、本丸の西南・東南・東北の隅櫓や、馬出正面の多門櫓が連結した桝形虎口が敵の侵入を阻んだ。
このように、名古屋城の本丸などの中枢部は二重、三重の鉄壁な防御の工夫で守られていたのである。
また、本丸西北に位置する御深井丸は、武器弾薬や兵糧などの備蓄基地として本丸を保管する施設であったが、戦時の際には兵の駐屯や籠城用資材の保管など、様々なことに使用される曲輪であったと考えられている。

名古屋城の縄張りは、中心に本丸を置き、その周りに方形の二の丸・西の丸・御深井丸・塩蔵構・大手馬出・搦手馬出を配置した。
これらの曲輪は位置をずらして配置され、各曲輪の間はいずれも狭い通路でのみ繋がり、独立していた。
そのため、いずれか一つの曲輪に敵が侵入したとしても、隣接する曲輪からの攻撃により、ほかの曲輪への侵入を防ぐことが可能であった。
城の周囲を取り囲む外堀は広大な規模の水堀であったが、本丸を囲む内堀は、より防御に適した空堀であった。

以上のように、名古屋城は戦国時代の城の複雑な縄張りに比べ、シンプルな縄張りであるが、随所に工夫を施すことで、敵が侵入しにくい強固な防御性を誇る堅固な縄張りとしたのである。
こうした縄張りとなった背景には、関ヶ原の戦い(1600年)後も、大坂城(大阪市中央区)に健在の豊臣秀頼(ひでより)包囲網の一環として、徳川家の本拠・江戸に直結する東海道における最大の防衛拠点として築城されたことにある。
大坂夏の陣(1615年)で豊臣家が滅亡すると、名古屋城惣構の築造が途中で中止となったことは、名古屋城築城の目的がどこにあったかを示している。
その後の名古屋城は、最大級の規模を誇る天守や豪華絢爛な本丸御殿、二の丸庭園に象徴されるように御三家筆頭で尾張藩主・徳川家の本拠として機能したのである。

<主な参考文献>
加藤 埋文 2021年『家康と家臣団の城』KADOKAWA
齋藤 慎一 2015年『徳川の城~天守と御殿~』江戸東京博物館
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖 1980年『日本城郭大系 第9巻 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社
縄張 | 建築・構造 | 名古屋城について | 名古屋城公式ウェブサイト




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(寄稿)勝武@相模

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