小野お通とは
大阪夏の陣の際、江戸藩邸にいた真田信之は、真田幸村(真田信繁)が討死したとの報を受ける。
その後、真田信之が沼田城に戻った際、鈴木忠重(鈴木右近忠重)が京都の小野のお通から預かったとされる。
真田幸村(真田信繁)の遺髪を、沼田に届けたと言う内容が、池波正太郎の「真田太平記」に見受けられる。
この小野お通は、戦国時代後期から江戸時代初期にかけての女性だが、謎が多い。
生年は1568年(1567年10月とも)とされ、没年は1616年又は1631年10月とされるが、これらも全く確証はない。
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美濃の地侍で斎藤道三の家臣だった小野正秀の娘ともされ、浅井長政に仕えると、浅井茶々(淀殿)に従ったと言う。
その後、織田信長に仕えた小野正秀は、明智光秀の本能寺の変にて森蘭丸らと討死したとある。
お通は母と共に京都にて公家・九条種道に匿われ、学問や技芸を教えられたとされるが、近衛信尹の家来・渡瀬羽林(わたせ-うりん)なる人物と再婚したとも。
この時、のちに真田信政の側室になる小野図(つう、お伏、お犬)を産んだとも言う。
別の説では、美作国津山城近くの押入下村の岸本彦兵衛の娘とする説もある。
一時、世話を受けていたことがあったのかも?知れない。
九条稙通に和歌を学んだ才女で、織田信長や豊臣秀吉、豊臣秀吉の正室・北政所の側近侍女であったともされ、侍女たちの教育係を任され、1598年の醍醐の花見にも招かれたのはどうも事実らしい。
醍醐の花見では「花見ればいとど心も若みどり をひせぬ春に逢ひ老の松」と「あかざりし花に心を遺しつつ 我が身は宿にかへりぬるかな」の二首を詠んでいる。
また、豊臣秀次の家臣・塩川志摩守の妻になって、一女を儲けたが、夫が酒乱であったため離別し、東福門院や新上東門院に仕えたとする説もある。
更に、徳川家康からの信頼も厚く、1603年には豊臣秀頼に嫁ぐ、千姫の介添女房頭にもなったと言う。
とにかく、出自も、その生い立ちや生涯も謎が多いが、宮中で学問や和歌を女房達に教えともあり、京の文化にも通じた教養ある女性であったようだ。
とくに小野お通が書いた「書」は当時を代表する女筆とされ「お通流」と呼ばれた。
淀殿や細川ガラシャも習っていたとする説がある。
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琴や書道にも秀で「浄瑠璃姫物語」の作者であると言う伝承もあるが、浄瑠璃姫の物語はもっと昔からあった事が確認されている。
真田幸村や後藤又兵衛らが奮闘した大坂の陣においては、千姫のために徳川家と裏交渉をしたが、淀殿に内通を疑われ大阪城から追放されたと言う。
その後、徳川秀忠とお江の娘・徳川和子が後水尾天皇に嫁いだ際にも、介添女房頭として再び宮中に入ったとも、また摂津の長柄に庵室を構えて尼になったとも言われている。
そして、どういう訳か、真田信之ゆかりの江戸・広徳寺に小野お通の墓がある。
この広徳寺は、加賀の前田家をはじめ、織田信雄や立花宗茂、柳生宗矩など蒼々たる武将も眠ると言う、諸大名が檀家の寺で、北条氏政の3男である岩槻城主・太田源五郎が、箱根・早雲寺の末寺として開山したことから始まる。
そんな寺に墓があるため、小野お通は松代藩主・真田信之とかなり親しいと言うより、側室格だったと推測できる。
真田幸村の兄・真田信之は、京都に滞在した際に、小野お通の世話を受けて、思いを寄せていたという説もある。
真田信之の次男で、第2代の松代藩主となった真田信政の側室であるお円(小野国子、小野図子、宗鑑尼)は、小野お通の娘とされ、真田信政の長男・真田信就(真田勘解由家)を1648年に産んだ。
真田信之の正室・小松姫は、小野お通の事を認識していたようで、亡くなる直前に「そろそろ京の人を迎えてみてはどうですか?」とお通を側室にするよう勧めたと言う。
そして、小野お通は真田信之の側室になったとも、ならなかったともある。
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繰り返すが、とにかく謎が多い。
しかし、実在はした女性であったようで、下記の内容がその証拠となる。
1622年11月18日付で真田信之が、おつう様に宛てた書状が現存する。
手紙の内容は、上田城から松代城へ国替になったと言う、真田信之の報告だ。
松代は名所も多い所なので、こうけん殿が生存していたら、そろってお招きしたい場所であると記載している。
この「こうけん殿」に関しては良く分からないが、小野お通の亡き夫や、父であった可能性もあるだろう。
また、追伸として、あなたのお眼鏡に適った奉公人を二、三人、京都から派遣して欲しい。とある。
この手紙は、お通の血を引く真田勘解由家に伝わっている。
と言う事は、小松姫が亡くなったのは1620年であるため、その後も小野お通は京にいて、松代にはいなかった、すなわち真田信之の側室にはなっておらず、単に親しい女性であったとも言えるだろう。
なお、吉川英治の「宮本武蔵」に登場する「お通」は、この小野お通がモデルだと言われている。
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はたして、小野お通と言う女性は、どの伝承が正しく、どのような生涯を送ったのか?
非常に、興味が湧くところである。
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