名胡桃城(なぐるみじょう)が最初に築かれたのは、1492年に沼田城主・沼田景久の時代とされます。
3男である、名胡桃景冬(名胡桃三郎景冬)が沼田城の支城として築城し、その子・名胡景夏が継承しました。
沼田家は北条家を頼るのか、はたまた上杉家を頼るのかで、1569年には内紛が激化し、沼田顕泰・沼田景義が会津の蘆名盛氏へ逃亡。
そして、鈴木重則(鈴木主水正重則)が名胡桃城主になったようです。
1578年、上杉謙信の死後、御館の乱となると北条氏政は北条氏邦を派遣して沼田城を制圧し、猪俣邦憲、藤田信吉、金子泰清の3名が沼田城に入りました。
1579年、上杉景勝との甲越同盟で東上野攻略の承認を受けた武田勝頼は、真田昌幸に命じて、沼田家の内紛に乗じる形で、まず小川城を攻略し、小川可遊斉と名胡桃城を落としました。
こうして、武田家の真田昌幸は名胡桃城を改修し、沼田城攻略を目指します。
真田昌幸は重臣の矢沢頼綱に沼田城を攻撃させると、金子泰清・藤田信吉らは降伏し、以後、真田家臣に加わりました。
1581年には、上野の女淵城主として復帰した沼田景義(沼田平八景義)が、由良国繁の力を借りて沼田城奪回の挙兵します。
沼田氏の旧臣・金子泰清らによって、沼田景義は沼田城へ迎えられますが、これは真田昌幸の策略で、沼田城内にて沼田景義は殺害され、沼田家は滅亡しました。
1582年、武田勝頼の自決後、上野一国を領した滝川一益の重臣・滝川益重が沼田領を領しますが、名胡桃城は一貫として鈴木重則が城主だったようです。
その後、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が横死すると、鈴木重則は真田昌幸の家臣に加わりました。
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その直後、天正壬午の乱となり、和睦した徳川家康と北条氏直の間で沼田領の帰属問題となりますが、真田昌幸はいずれの提案も拒否し、上杉景勝を頼りました。
これにより、沼田城や名胡桃城は、北条家によって度重なり攻撃を受けますが、沼田城主・矢沢頼綱がいずれも退けたようです。
1589年7月、ついに豊臣秀吉が真田昌幸と北条氏直の沼田領争い問題を仲裁します。
徳川家康の信州伊那郡が代替地として真田昌幸に譲られ、沼田城は正式に北条氏直の領地としました。
しかし、利根川右岸の拠点である名胡桃城だけは、真田昌幸に残されると言う中途半端な内容となりましたが、沼田城や小川城は北条家のものとなり、小川城には富永又七郎が在城しています。
しかし、北条家に取って見れば、名胡桃城も支配下とならないと、沼田を領したとは言えないだけでなく、沼田城から5kmしか離れていない名胡桃城は大変目障りです。
北条氏邦の重臣であった沼田城主・猪俣邦憲(いのまた-くにのり)が、名胡桃城主・鈴木重則の家臣・中山実光(中山九兵衛実光)を買収します。
そして、1589年10月23日、真田昌幸が書いたとする偽手紙を鈴木重則に送って城外へ誘き出した間に、中山実光が名胡桃城を乗っ取りました。
この中山実光は元々中山城主で、姉妹である中山栄子が、名胡桃城主・鈴木重則の妻となっており、中山城を北条家に追われた際に鈴木重則を頼っていました。
そんな、中山実光を信じた鈴木重則は書状を受けて上田城へ赴きましたが、途中、岩櫃城に寄ったところで、この頃岩櫃城主だった矢沢頼綱から、そんな事実はないと断言されます。
騙されたと悟った鈴木主水は急ぎ名胡桃城に戻りましたが、すでに占拠されていたと言う逸話です。
そして、鈴木重則は、不覚にも名胡桃城を奪われた自分を恥じ、沼田城下の正覚寺にて自害して果てたと言います。
切腹する場合、通常は座って行いますが、鈴木重則は「立腹」という立ったまま切腹をしたと言う、忠義の武士であったと、正覚寺の記録にあります。
鈴木重則の子・鈴木忠重(鈴木右近)は、母と共に北条家に捕われますが、解放されると真田昌幸が面倒を見みました
真田昌幸の死後は、真田信之の家臣にその名が見られます
この名胡桃城奪取事件を真田昌幸から聞いた豊臣秀吉は、惣無事令違反だと小田原城攻めの口実を得て、1589年12月13日に小田原攻めの陣触れを出したのです。
もっとも、なかなか上洛しない北条家に業を煮やしていた豊臣秀吉は、自分が裁決した沼田領の問題を、北条家が反故にしたのに、堪忍袋の緒が切れたと言えるでしょう。
小田原攻めのあと、沼田領は真田昌幸に戻され、沼田城主に真田信幸(真田信之)が入ると、名胡桃城は廃城となりました。
名胡桃城への行き方
名胡桃城への行き方・アクセスですが、般若郭が無料駐車場になっています。
下記の地図ポイント地点となります。
名胡桃城の標高は約430mで、谷下からの比高は約50mの山城です。
独立峰ではなく、上記の駐車場になっている般若郭より、ほとんど高低差なく、比較的コンパクトに見学が可能ですので、見学所要時間は30分といったところになります。
駐車場脇のレストランのような建物がトイレ付の無料休憩室になっており、資料や自動販売機があります。
ただし、木曜日は空いていません。
しかし、小生が訪れた5月は、平日だと言うのに、駐車場は車で80%埋まっていました。
でも、名胡桃城を歩いている人は皆無でしたので、釣りに来ているのか、登山に来ているのかわかりませんが、名胡桃城に用事が無い方が多数止めているようです。
※大河ドラマの放送開始後、臨時の駐車場もできたと聞き及んでいます。
小松姫と同じ「正覚寺」には切腹した、名胡桃城主・鈴木重則(鈴木主水正重則)の墓とされるものがありますが、あまり立派では無く、最近では全く関係ないとされています。
【寄稿】日本の首都を決めた–ぐんまの小城
~真田ファンは押さえておきたい「名胡桃(なくるみ)城址」~(群馬県みなかみ町下津)
▼豊臣秀吉の小田原攻めのきっかけになったのが、当時真田昌幸が領していた上州名胡桃城。
もともと武田勝頼時代に真田昌幸が北条対策に築いた城だ。武田滅亡後は織田の代官として上州に赴任した滝川一益にも真田の支配を認められた。
北条氏上洛を促すために、秀吉は真田に命じ上州沼田領3分の2の領有を北条家に認めたが、北条はこれを不服とし、残る名胡桃領も要求した。
▼秀吉の許可がないまま北条方の沼田城代は名胡桃城を実力で攻め取った。
真田昌幸は豊臣秀吉の手前グッと我慢。
一方で、激怒した秀吉はこれを理由に北条討伐の兵を挙げ、小田原を開城に追い込んだ。
▼北条家改易の結果、徳川家康が東海から関東へ移封され、江戸を居城にするよう命じられた。「関東の連れ小便」の逸話だ。
名胡桃の小城は、日本の首都・東京を決定づけたわけだ。
(プラス寄稿)柳生聡
・豊臣秀吉による小田原攻めのきっかけの城・「名胡桃城」とは
・沼田城と小松姫の墓を偲ぶ 訪問記・写真集
・矢沢頼康【矢沢三十郎頼幸】~真田家第一の家臣~弟の矢沢頼邦も
・矢沢頼綱~沼田城を僅かな兵にて守り抜いた真田家の名将
・真田信之【真田信幸】とは?詳細版で詳しくわかる吉光のお長持
・北条氏政【詳細版】~小田原城主・関東覇者への道のり
・板部岡江雪斎~北条3代に仕えた外交僧であり和歌や茶道を好む風流人
・豊臣秀吉の小田原攻め~大軍にて小田原城を包囲した名だたる籠城戦