真田十勇士に登場する「筧十蔵」は実在した人物(モデル)がおり「筧十兵衛」と言う小姓が真田幸村に実際に仕えたとされている。
※上記画像出典:真田幸村の日の本一の独り言より
筧十兵衛は、1573年、真田家臣の筧虎秀 (筧十兵衛虎秀) の長男として生まれた。
他の名前としては金六郎、掛飛十蔵、政右衛門などともある。
父・筧虎秀は、真田家家臣と言っても、名も知られない足軽であったが、敵の包囲を抜けて城門を丸太で突き破るという、素晴らしい戦功を挙げた武勇を評価されて、家来持ちの武将に出世したと伝わる。
そして、筧虎秀は真田幸隆・真田昌幸の父子の重臣となったのだ。
そんなことから、筧十蔵は海野六郎兵衛や望月六郎兵衛らと同じく、真田幸村の小姓として仕え、真田幸村家臣の中でも最古参の1人となった。
筧十蔵は鉄砲の名手としても知られ、種子島銃を携帯し、かなりの腕前であったと言われている。
性格は豪胆であったが、真田幸村からの信頼は厚く、地味ながらも篤実な人柄の鉄砲狙撃隊の隊長として、真田十勇士の一翼を担い、時には真田幸村の影武者も務めた。
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筧十蔵の経歴
1585年、真田幸村が人質として春日山城、海津城に赴く際、それに筧十兵衛も小姓として従っている。
1586年、真田幸村の北条攻めに従軍し、筧十兵衛は14歳で初陣となった。鉄砲隊を率いて敵軍を迎撃したと言う。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めに、真田幸村も従ったので、筧十兵衛も真田勢に加わって、八王子城などを攻撃している。
1590年、真田幸村が、豊臣秀吉の人質として大阪城へ赴く際、筧十兵衛も従っている。その後も真田幸村とは行動を供にするようになった。
1600年、関ヶ原の戦いでは、石田三成の西軍についた真田昌幸・真田幸村とともに、上田城にて籠城した。真田家の鉄砲隊将として徳川勢撃退に大きく貢献し、戦功をあげている。
関ヶ原の戦いで石田三成が敗れると、真田幸村らと九度山に赴いた家臣275人の1人であり、その後、筧十兵衛は由利鎌之助とともに諸国の情勢を探るために旅に出て、主に西国を周り情報収集に当たった。
1614年、大阪冬の陣では真田幸村のもとに大阪城に馳せ参じた。筧十蔵41歳。真田丸の攻防戦では、筧十蔵の鉄砲隊と望月六郎兵衛の大砲が大いに活躍し、徳川勢を翻弄した。
1615年、大坂夏の陣では、針などを使いこなし、大坂夏の陣で徳川方を散々に苦しめた、と伝えられる。猟師組30人を指揮したが、銃弾を撃ち尽くし、祢津甚八郎らとともに筧十兵衛(筧十蔵)は壮絶な討死をした。
「真田三代記」によると、豊臣秀頼と真田幸村は生き延びて、薩摩に落ちた際に、筧十蔵も従ったとされ、兵庫の一部地域の筧家には九州に落ちたと伝わる。
なお、筧氏については真田譜代の家臣ではなく、元々は豊臣恩顧の大名・蜂須賀小六の家臣だったとも言われ、筧十蔵は筒井順慶の家臣・筧孫兵衛の長男とも、豊後国富来20000石の城主・垣見家純 (垣見和泉守家純)の嫡男ともあり、様々な出自説がある。