常田隆永(ときだ-たかなが)の父は諸説有、真田頼昌、海野棟綱、海野幸義などがある。
海野棟綱の3男とする説になると、武田信玄に仕えた真田幸隆が兄であり、常田隆永は常田家に養子として入った。
なお、矢沢頼綱よりも早く武田幸隆の配下に加わったものと推定される。
そして、真田幸隆・矢沢頼綱と共に箱岩城を攻撃すると、箱岩城主となり武田信玄に仕えたとされる。
とにかく、この常田隆永と常田俊綱の親子に関しては、不確定要素が多く、不明な点も多いが、拾った内容を下記に記述する。
1562年、上杉政虎(上杉謙信)に属していた長野原城主・斎藤憲広が降伏すると、常田隆永が長野原城主となった。
しかし、1563年9月、奪還を図る斎藤憲広の反撃によって、長野原城は陥落し、常田隆永とその子・常田俊綱は共に討死したとされる。
この時、須川橋と琴橋を破壊して、上杉勢の進入路を絶ったが、上杉勢は周辺の山から大木を切り出しては、橋を即席で架けて城内へなだれ込んだと言う。
少数だった常田勢は一網打尽にされて戦死した。
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ただし、父・常田隆永が討死したのは1572年の上杉家との合戦だともされるが、その逆で、子の常田俊綱が生き延びており1572年に討死したと考えられる。
また、常田隆永は戦死しておらず、晩年は剃髪して道尭を名乗り、1570年7月8日に死去したともある。
なお、常田隆永の嫡男は常田俊綱(ときだ-としつな)とされるが、亡くなったあと、河原隆正の3男である河原隆頼が養子に入って常田家を継承したともある。
この養子の常田隆頼は、1575年の長篠の戦いで討死した。
常田の庄を含む地には、1583年に真田昌幸が上田城を築城し、藩主の邸宅の地に、常田屋敷があったとも言われている。
子孫は矢沢家と同じように真田家に仕えて存続した。
常田作兵衛
常田作兵衛は、その養子に入った河原隆頼(常田隆頼)の子とされる。
常田作兵衛は、真田幸村と共に大阪夏の陣にて戦い、討死した。
常田作兵衛には遺児がいたが、幼かったようで、真田信之は、常田家の存続のため、河原綱家の4男・河原忠兵衛を常田忠兵衛として継がせている。
しかし、1626年3月、徳川家光が上洛する際に、随行する事になった松代藩士として、常田忠兵衛は、支度金の借用を藩へ申し出たが認められず、常田忠兵衛ら48名は脱藩して保科家の家臣になった。
その為、松代藩では常田作兵衛の遺児が、常田家を継いでいる。