塔原幸貞【海野幸貞】とは

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塔原幸貞(とうばら-ゆきさだ、海野幸貞、海野三河守幸貞)は、海野輝幸の4男で、正室は矢沢頼綱の娘であり、真田昌幸とは従兄弟にあたる。

真田昌幸の進言により、武田勝頼から塔原家の家督を相続することが認められ、信濃先方衆20騎持ち塔原城主となる。

生島足島神社には、海野幸貞の起請文が見られる。

1580年、真田昌幸の上州攻略では、80騎にて先陣を務めた。




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武田勝頼の死後は、一度、織田信長に臣従したあと、深志城(松本城)に復帰した小笠原貞慶に仕えたが、1583年、苅谷城主・赤沢経康、小岩巓城主・古厩盛勝らと上杉景勝に通じて謀反を企てたのが露見し、小笠原貞慶に松本城にて殺害されている。

なお、海野幸義の弟にも、海野幸貞というと名前が出て来る。別名は海野業吉とも言うが、この海野幸義の弟・海野幸貞と、別途、海野輝幸の子・海野幸貞と、海野幸貞に関しては、昔の史料自体が誤記をしていた可能性がある。
そのため、松本城主・小笠原貞慶によって松本城で暗殺さたれ海野幸貞と、沼田城にて真田昌幸によって追い詰められ自害した海野幸貞と2人いるので、ご注意願いたい。

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