【徳川家康と城】「天下普請」の城・名古屋城の築城~加藤清正による天守台の築造と天守の木造復元問題~

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名古屋城の概要

名古屋城(愛知県名古屋市中区)は、徳川家康が1610年(慶長15年)2月から「天下普請(ぶしん)」によって築城した輪郭(りんかく)式の平城である。
明治維新まで、徳川家康の9男・徳川義直(よしなお)を初代とする尾張(愛知県)徳川家17代の居城として機能した。
明治維新後は陸軍省、次いで宮内省の管轄となったが、1930年(昭和5年)に宮内省から名古屋市へ下賜され、翌1931年(昭和6年)から一般公開された。
戦前までは天守や本丸御殿などの多くの建物が保存されていたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋大空襲で、本丸御殿をはじめ天守(大天守・小天守)、東北隅櫓(すみやぐら)、正門、金鯱(きんしゃち)などが焼失した。

1952年(昭和27年)3月に名古屋城跡は国の特別史跡に指定され、現在、三の丸を除いて名城公園の南園として整備されている。
園内には国の重要文化財に指定されている櫓(やぐら)3棟、門3棟が現存し、1959年(昭和34年)には正門や天守が鉄筋コンクリート造りで再建された。
その後、2009年(平成21年)1月に本丸御殿の復元工事が始まり、2013年(平成25年年)に玄関・表書院が、2016年(平成28年)に対面所・下御膳(さげごぜん)所がそれぞれ公開され、2018年(平成30年)に上洛殿が完成し本丸御殿は全面公開されている。

現在、名古屋市が名古屋城の保存・活用と価値を高めることを目的に、天守や東北隅櫓、門、馬出、本丸多聞櫓、二の丸庭園、二の丸御殿、石垣補修などの整備計画を進めている。
それらの中で天守については、2009年(平成21年)8月に河村たかし・名古屋市長が木造で建て直すこと(以下、木造復元という)を検討すること、2013年(平成25年)1月には木造復元事業に着手することを発表した。
2018年(平成30年)5月からは復元工事に先立つ調査や、また耐震性の問題なども加わり、再建工事の完了まで現天守への入場は禁止となっている。
木造復元工事は文化庁から解体・再建許可が出ていないことや、木造復元に伴う耐震耐火やバリアフリーなどの課題が山積しており、新たな天守の完成時期は最短でも2032年度(令和14年度)ごろになるという。

名古屋城の築城経緯

1609年(慶長14年)、徳川義直が尾張国62万石を領することになり、徳川家康とともにこれまでの尾張の拠点である清須城(愛知県清須市)に入城した。
徳川家康は、大坂城(大阪府大阪市)に健在の豊臣秀頼(ひでより)に備えて尾張の地に新たな城を築くことを計画しており、その候補地の視察を兼ねていた。
候補地は小牧山•古渡(ふるわたり)•那古屋の3か所であったが、視察の結果と徳川義直付きの重臣である山下氏勝(うじかつ)の進言により、那古野の地に築城することを決めた。
那古屋に決まった理由としては、西からの侵攻に防御しやすい地形であること、交通の便が良く平坦で広大な地形が城下町の経営に最適であること、水害の心配がないことなどである。

名古屋城の普請奉行は牧長勝(ながかつ)・滝川忠征(たきがわ ただゆき)・佐久間政実(まさざね)・山城忠久(ただひさ)・村田権右衛門(ごんうえもん)の5人、作事奉行は小堀政一(まさかず・遠州)・大久保長安(ながやす)ら9人が任じられた。
築城は諸大名に工事を分担させる「天下普請」でおこなわれ、1609年(慶長14年)11月に加藤清正(きよまさ)・黒田長政(ながまさ)・細川忠興(ただおき)・前田利常(としつね)・蜂須賀至鎮(よししげ)ら豊臣恩顧の17家の諸大名が助役を命じられた。
1609年(慶長14年)12月に篠山城(兵庫県丹波篠山市)の築城工事(「天下普請」)が終了すると、池田輝政(てるまさ)・福島正則(まさのり)・浅野幸長(よしなが)の3家も加わり、都合20家の諸大名が築城工事を担った。

築城工事は1610年(慶長15年)2月に始まり、事前に石材・木材などが集められ、20万人を超える人夫が動員されたことで、これまでの城郭の築城に比して驚くほど早く進んだという。
工事開始から半年後の同年8月には、天守台が完成、9月頃には本丸・二の丸・御深井丸(おふけまる)の石垣もほぼ完成し、12月までには石垣工事は完了したと伝わる。
名古屋城ほどの大規模な城郭の石垣工事は2~3年を要するというが、それが1年も待たずに完成したのは、加藤清正の功績によるものである。

加藤清正による天守台の築造

加藤清正は1562年(永禄5年)6月に刀鍛冶(かじ)・加藤清忠(きよただ)の子として尾張国中村(名古屋市中村区)で生まれ、幼少より母同士が従姉妹(いとこ)という豊臣秀吉に仕えた。
その後、山崎の戦い(1582年)や賤ケ岳の戦い(1583年)などで武功を挙げ、1588年(天正16年)には肥後(熊本県)北部19万5千石を与えられた。
豊臣秀吉による文禄・慶長の役(1592年・1597年)では、加藤清正は蔚山倭城(うるさんわじょう・大韓民国蔚山広域市)の縄張りをおこない、1597年(慶長2年)12月、未完成の蔚山倭城を6万近い明・朝鮮連合軍が包囲すると、加藤清正は約500人の兵で10日間、持ちこたえて、毛利秀元(ひでもと)・黒田長政らの援軍とともに退けるなどの活躍をした。

1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が没すると、五大老の徳川家康に接近し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは徳川家康(東軍)に味方し、国元の熊本において九州の石田三成(みつなり)方(西軍)を次々と破った。
この功績により戦後は小西行長(ゆきなが)の旧領であった肥後の南半分を与えられ、52万石を領する大大名となった。
1611年(慶長16年)3月には、二条城における徳川家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど、徳川家と豊臣家の和解のために尽くしたが、同年5月に熊本への帰国途中の船内で発病し、6月24日に没した。

加藤清正は藤堂高虎や黒田孝高と並ぶ築城の名手として知られ、名古屋城のほかに、居城の熊本城や朝鮮出兵時の拠点である名護屋城(佐賀県唐津市)、大韓民国に築いた蔚山倭城、徳川将軍代々の居城で江戸幕府の政庁である江戸城(東京都千代田区)などの築城に関わっている。
名古屋城の築城において、加藤清正は小天守台を含めた天守台を担当し、国元の熊本から約2万人の人夫を動員して3カ月足らずで築き上げたと伝えられている。
完成した天守台は東側で約12.5m、西側と北側で約20mを測り、正方形に近い正確な長方形を呈したものである。




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この天守台の上に、我が国最大の延べ面積を持つ5重5階・地下1階の巨大な天守が建てられた。
1612年(慶長17年)に完成した天守の構造は、これまで主流であった望楼(ぼうろう)型天守とは異なる新型式の層塔(そうとう)型天守である。
望楼型天守が二重の入母屋(いりもや)造りの建物の上に物見台の機能を持つ望楼を載せるのに対し、層塔型天守は1階から最上階まで、上の階を下の階より規則的に面積を減らしていく形式の天守である。
名古屋城天守の面積は1階部分で約37.0×約32.8m、高さは約36.1mで石垣を含めると約55.6m、そして総延べ床面積が約4,424.5㎡という巨大なものである。
名古屋城天守の外観は、平側(長辺側)の2重目に千鳥破風(ちどりはふ)を2つ並べた比翼(ひよく)千鳥破風、3重目に大規模な千鳥破風、そして4重目の屋根に格調高い軒唐(のきから)破風を設けている。
一方、妻側(短辺側)の2重目は、2カ所に出窓を設けてその上に軒唐破風、その間に千鳥破風、3重目に比翼千鳥破風、4重目にも千鳥破風、5重目には入母屋破風を設けて破風尽くしの外観であった。
こうした巨大な規模の層塔型天守を建てることができたのは、加藤清正が高度な石垣構築技術により、ゆがみがない正方形に近い単純明快な構造の天守台を築き上げたからにほかならない。

現在、大天守台の北東隅石に「加藤肥後守 内(ない)小代下総(しょうだい しもうさ)」、大天守台の南西隅石には「加藤肥後守 内中川太郎平(なかがわ たろうべえ)」と刻まれた刻印(こくいん)石が残る。
小代下総は、加藤清正が肥後北部を与えられた際に4,135石で仕えた重臣・小代親泰(ちかやす)のことで、中川太郎平は宇土城代を務めた重臣である。
名古屋城には、石垣工事を担った諸大名が刻んだ多くの刻印石が現存するが、加藤清正のように実務を担当した家臣の名も一緒に刻んだ刻印石はみられない。
この2つの刻印石から、短期間での天守台築造に苦労した家臣たちに報いたい、という加藤清正の心情を読み取ることができる。

なお、二の丸には、天守台に使う巨石を運ぶにあたり、加藤清正自ら石の上に乗り音頭を取ったという偉業を称えて「清正公石曳(いしびき)きの像」が建てられている。
また、本丸の東二の門を入った正面には、現在も大きさが約8畳敷(約3.6m×3.6m)、重さが推定で約10トンとされる名古屋城最大の巨石がある。
この巨石を加藤清正が運んだという伝承から「清正石」と呼ばれているが、この地区の石垣普請は黒田長政が担当したので単なる伝承にすぎない。

天守台石垣と天守の木造復元問題

加藤清正が築造した天守台は、築造後約150年が経た1752年(宝暦2年)から1755年(宝暦5年)にかけて天守の大規模な修理がおこなわれている。
この宝暦大修理において天守台は、主に北面と西面の大部分で石垣の解体と積み直しがおこなわれたが、その後、幕末まで天守台石垣の修復に関する記録はない。
1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲において天守が焼失した際、その被熱により石垣も損傷したことで年を経るごとに、天守台内側の石垣崩壊が進み、外側の石垣の崩壊も懸念された。
そこで、1952年(昭和27年)度から1957年(昭和32年)度の間に数回の修復工事がおこなわれ、さらに、1957年(昭和32年)から1959年(昭和34年)にかけての天守再建工事において、天守台内外の一部の石垣の積み直しがおこなわれた。

その後は天守台石垣の修復はおこなわれておらず、石垣のいたるところにひび割れや破断も広範囲にみられることから、石垣はきわめて危険な状態であることが多くの城郭研究者により指摘されている。
こうした石垣の危険な状況や復元スケジューなども踏まえ、文化庁は天守木造復元にともなう現天守の解体や再建の許可をしていないという。
名古屋城天守の木造復元に関わっている城郭研究者からも、天守台石垣の現状把握や安全性、保存の方針などについて不十分であるとの指摘がなされている。

このことを受けて、2017年(平成29年)から天守台周辺の石垣の測量調査や発掘調査、石材調査、劣化度調査などが名古屋市によっておこなわれ、今現在も、2019年(平成31年)4月に開設された名古屋城調査研究センターにより調査・研究が進められている。
今後の名古屋城の天守復元については、石垣の保全と安全対策を最優先課題として、天守台石垣やその周辺部において多様な調査・分析をおこなったうえで、復元の可否も含めて再検討することを期待したい。




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<主な参考文献>
加藤 埋文 2021年『家康と家臣団の城』KADOKAWA
齋藤 慎一 2015年『徳川の城~天守と御殿~』江戸東京博物館
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖 1980年『日本城郭大系 第9巻 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社
センターの紹介 | 調査研究センター | 名古屋城公式ウェブサイト

(寄稿)勝武@相模

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