【徳川家康と城】世界文化遺産・二条城の歴史的役割を探究する~徳川家康による築城から世界文化遺産に至る歴史~

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京都市中京区に所在する「元離宮二条城」(以下、「二条城」と略す)は、京都市営地下鉄東西線・二条城前駅から徒歩約1分である。
1952年(昭和27年)、現存の二の丸御殿をはじめ多くの建物が国宝や重要文化財に指定され、1994年(平成6年)にはユネスコの世界文化遺産に登録されている。
国宝に指定されている建物は、二の丸御殿は遠侍(とおざむらい)及び車寄せ・式台・大広間・蘇鉄(そてつ)之間・黒書院・白書院の全6棟である。
また、重要文化財に指定の建物は、本丸御殿の玄関・御書院・御常(おつね)御殿・台所及び雁之間(かりのま)や、二の丸御殿の唐門・筋塀(すじべい・築地塀)・台所・御清(おきよめ)所、本丸櫓門・東大手門・北大手門など8つの門、東南隅櫓・西南隅櫓、3つの土蔵、東南隅櫓北方多門塀である。

明治維新後は京都府や宮内省の管轄となり、1939年(昭和14年)に宮内省から京都市に下賜され、翌1940年(昭和15年) 2月からは「恩賜元離宮二条城」として 一般公開されている。
二条城の開城時間は8時45分~16時(閉城は17時)で、休城日は12月29日~12月31日である。ただし、本丸御殿は保存修理工事中のため、2007年(平成19年)から2024年(令和6年)6月2日現在、公開を休止している。

二条城は1867年(慶応3年)に江戸幕府最後(15代)の将軍・徳川慶喜が二の丸御殿で「大政奉還」の表明をおこなったことで知られているが、初代将軍・徳川家康が築いて以降、徳川将軍家の京都における居館としての役割を担ってきた。
本稿では、徳川家康による築城から明治維新を経て、現在は世界文化遺産に登録されている二条城の歴史を紐解きながら、二条城の歴史的役割を探究する。

徳川家康による築城

江戸幕府初代将軍・徳川家康は関ヶ原の戦い後の1601年(慶長6年)に二条城の築城を始めた。
築城場所は上京と下京の境、堀川通に面した豊臣政権を象徴する旧聚楽第の南側、京都御所を監視する場所である。
その築城経緯については『義演准后(ぎえんじゅんごう)日記』の1601年(慶長6年)5月9日条に「伝え聞く、京都に内府の館を立つと云々、町屋四五千間も退くと云々」とある。
徳川家康が二条城築城のために町屋4000軒~5000軒を退去させたことがわかる。
二条城の築城は諸大名に工事を分担させる「天下普請」によるもので、1601年(慶長6年)12月、畿内の大名に造営費を課している(『徳川実記』)。
総普請奉行は京都所司代・板倉勝重が任じられ、1602年(慶長7年)4月に加藤清正らの豊臣恩顧の諸大名が堀・石垣などの普請を担った。




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1603年(慶長8年)3月21日に徳川家康が初めて入城していることから、それまでに御殿などがほぼ完成したものと考えられる。
ただし、最終的に築城工事が完了したのは1606年(慶長11年)4月頃と考えられている。
徳川家康は二条城において、1603年(慶長8年)3月27日に将軍就任の祝賀の儀をおこない、1611年(慶長16年)3月28日には豊臣秀頼と会見している。
1614年(慶長19年・元和元年)の大坂冬の陣・夏の陣では、徳川家康・秀忠父子が二条城に滞在し、江戸幕府方の本陣とした。

なお、この時期の二条城は現在の城域の東側半分であったことが、2009年(平成21年)の発掘調査により明らかとなった。
また、検出された石垣の石材は、天正期(1573年~1592年)後半から文禄期(1592年~1596年)にみられる粗割石(あらわりいし)と自然石が多いことから、豊臣秀吉の京都の居館であった聚楽第(じゅらくてい)の旧材が再利用されたものと考えられている。
この時期の二条城は「洛中洛外図屏風」(堺市博物館所蔵)によると、構造は方形の単郭で、周囲を石垣と水堀が囲み、大手門は東側の堀川に面している。
大手門は入母屋(いりもや)屋根の薬医門か四脚門のようで、京都御所との位置関係からか櫓門でもない変則的な門である。
御殿は曲輪内を築地塀で方形に囲い込み、東に通用門、南に御殿正門の唐門が位置する。
御殿の構造は遠侍(とおざむらい)・表御殿・奥向御殿・大台所が続き、東寄りに一棟の建物がみられ、現在の二の丸御殿とほぼ同様であることが確認されている。
天守は2・3・4重目の屋根に入母屋破風があり、巨大な二重櫓の上に3階建ての望楼(ぼうろう)部を載せた望楼型天守であったと推定されている。
なお、この天守は新築ではなく大和郡山城(奈良県大和郡山市)の天守が移築されたものと考えられている。

寛永の大改修と天皇行幸

1624年(寛永元年) 2月、2代将軍・徳川秀忠は尾張藩主・徳川義直(よしなお)をはじめ、譜代大名18家に二条城の大改修を命じた。
2年後の後水尾(ごみずのお)天皇の行幸(以下、「行幸」と略す)を仰ぐための改修工事で、1626年(寛永3年) 3月にはほぼ完了し、同年6月20日に徳川秀忠は入城している。
この大改修で城域が西側に拡張され、現在の凸型の構造となり、拡張された部分に本丸が新たに築造され、本丸の周囲には堀が巡らされた。
建物は本丸御殿をはじめ行幸御殿と天守が新築され、本丸御殿は行幸の際は徳川秀忠の宿所となり、行幸御殿は二の丸御殿の南西側に建てられた。
天守は城の北西隅にあった慶長期のものが解体され、新たに本丸の南西隅に築かれたが、伏見城の天守が移築されたものと考えられている。
『寛永行幸記』によると、1626年(寛永3年)9月6日、多くの群衆が見物する中、後水尾天皇は大名・公家らを伴って二条城に入城し9月10日まで滞在した。
この間、後水尾天皇は舞楽や和歌、管弦、能楽を楽しみ、8日と10日には本丸天守から四方を遠望したという。
行幸が終わると、行幸に伴う建物、例えば、行幸御殿南東側の唐門が南禅寺(京都市左京区)、行幸御殿・中宮御殿などが仙洞(せんとう)御所へ移築されていき、行幸御殿があった二の丸御殿の南西側は空き地となった。

寛永期以降の二条城

1634年(寛永11年)、3代将軍・徳川家光が30万もの大軍を率いて上洛し、同年7月11日に二条城へ入城した。
7月23日、板倉重宗らが京の各町の代表に二条城二の丸の白砂に集め、徳川家光が銀子(いんつう)5,000貫、一軒につき約135匁(もんめ)を与える旨を伝えているが、その様子を徳川家光は二の丸の櫓から見物したという。
また、寛永期(1624年~1643年)以降は二条城に常駐する幕臣(在番衆)のための建物の整備も進められた。
1662年(寛文2年)には東大手門が改修され、これまでの平屋建てであったものが2階建ての櫓門へと建て替えられ、現在の姿になったという。

その後、二条城は建物の老朽化が目立つようになり、1686年(貞享3年)年には大々的な破損個所の見分がおこなわれ、不要な建物・部屋の取り壊しが検討された。
この年から元禄期(1680年〜1709年)にかけて計画的、段階的に二の丸・本丸において、大規模な修築や解体・撤去が進められていった。
建物の老朽化に加えて、二条城は火災や地震、暴風雨、落雷などの災害にも見舞われており、以下のような被害が出ている。
・1662年(寛文2年)5月1日、大地震で「殿舎」が大破
・1665年(寛文5年)5月12日、大地震で石垣や二の丸御殿などが破損
・1701年(元禄14年)6月20日、落雷で天守の一部などが破損
・1750年(寛延3年)8月25日、落雷と火災で天守が焼失
・1788年(天明8年)正月30日、天明の大火で本丸が焼失
・1830年(文政13年)7月2日、文政の大地震で二条城全体に大きな被害
これらの災害による被害状況や修復の様子などは各種資料にみられるが、文政の大地震における被害状況については江戸幕府の記録である『江戸幕府日記』や『徳川実記』にみられない。
このことから、江戸時代後半には江戸幕府の二条城への関心は、次第に薄れていったことが指摘されている。

幕末・明治維新後の二条城

1863年(文久3年)3月、徳川家光以来210数年ぶりとなる14代将軍・徳川家茂の上洛が計画され、二条城の改修や増築がおこなわれた。
徳川家茂は3月4日に二条城に入城し、3月7日に御所に参内、11日には孝明天皇の賀茂社行幸に供奉し、1864年(元治元年)年1月から5月にかけても二条城に滞在した。
第二次長州征討など政情が緊迫していた1865年(慶応元年)年閏5月にも徳川家茂は上洛し、二条城と大坂城の間を何度か行き来し、翌1866年(慶応2年)年7月20日に大坂城で没した。
最後の将軍となった15代将軍・徳川慶喜は徳川家茂の在世中から将軍後見職や禁裏守衛総督(きんりしゅえいそうとく)として二条城に滞在していたが、1866年(慶応2年)12月5日、正式に将軍宣下を受けた。
翌1867年(慶応3年)10月13日、徳川慶喜は二条城二の丸の大広間に40藩の重臣50名ほどを集め、政権を朝廷に返すことを表明し、翌10月14日に朝廷に大政奉還を上表した。
同年12月9日、王政復古の大号令が発せられ明治新政府が成立すると、12日に徳川慶喜は会津藩主・松平容保(かたもり)らと二条城を退去し大坂城に移った。




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徳川慶喜退去後の二条城は明治新政府が接収し、1868年(明治元年)1月に太政官代が置かれ、学習院、金穀出納所、会計事務裁判所が設けられた。
1871年(明治4年)6月から1885年(明治18年)までは京都府の管轄となり、二の丸御殿に京都府庁舎が置かれた。
その後、二条城は宮内省に移管され、1893年(明治26年)、本丸跡に桂宮御殿が移築され、1955年(大正4年)には大正天皇の即位礼が執りおこなわれた。
1939年(昭和14年)に宮内省から京都市に下賜され、1940年(昭和15年) 2月11日からは「元離宮二条城」として一般公開されている。
1952年(昭和27年)に文化財保護法の制定に伴い、二の丸御殿6棟が国宝に、東大手門など22棟の建物が重要文化財に、1953年(昭和28年)には二の丸庭園が特別名勝に指定された。
さらに、1994年(平成6年)12月には「古都京都の文化財」を構成する17遺産の一つとして世界文化遺産に登録された。

二条城の歴史的役割

二条城は、関ヶ原の戦い(1600年)に勝利した徳川家康が、翌1601年(慶長7年)から京都における居館として築いたとされている。
ただし、徳川家康が二条城にもっとも長い期間滞在したのは、大坂夏の陣のときの1615年(元和元年)4月18日から8月4日までの約3か月である。
徳川家康は1603年(慶長8年)2月に伏見城(京都市伏見区)で将軍宣下を受けており、2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光も伏見城で将軍宣下を受けており、二条城では祝賀の儀がおこなわれた。
このことから、慶長期・元和期(1615年~1624年)の二条城は京都御所への参内や儀式をおこなうための京都屋敷としての役割を果たしたものと考えられる。

1626年(寛永3年)9月の後水尾天皇の行幸に伴い、二条城は大規模な改修がおこなわれ、西側に本丸が拡張されて現在の姿になった。
この本丸には本丸御殿や天守が、二の丸御殿の南西側には行幸御殿が新築された。
後水尾天皇の二条城滞在は9月6日から9月10日までのわずか4日間であったが、舞楽や能楽などが催(もよお)され、二条城の歴史の中でもっとも華やかなイベントであった。
1634年(寛永11年)に7月には、3代将軍・徳川家光が30万もの大軍を率いて上洛して二条城に滞在し、京の各町の代表に銀子を与えるなど、二条城は将軍の武威を示す場ともなった。
また、寛永期以降は二条城の在番制度も整い、在番する幕臣らのための建物も整備されていった。
寛永期以降の二条城は、1619年(元和5年)7月に廃城とした伏見城に代わって、徳川将軍の京都における居城としての役割を果たすことになった。

しかし、4代将軍・徳川家綱以降、13代将軍・徳川家定にいたるまで、二条城に将軍が滞在することはなかった。
二条城が再び歴史の表舞台に登場するのは、幕末の混乱期で、1863年(文久3年)3月、14代将軍・徳川家茂が二条城に滞在し混乱の収拾を図った。
1867年(慶応3年)10月には、15代将軍・徳川慶喜が二条城二の丸の大広間で大政奉還を表明し、二条城は260年余り続いた江戸幕府の終焉の場となったのである。

明治維新後の二条城は、京都府次いで宮内省管轄の「二条離宮」となり、1955年(大正4年)には大正天皇の即位礼が開催されるなど、離宮あるいは迎賓館としての役割を果たした。
1940年(昭和15年) 2月11日からは「元離宮二条城」として一般公開され、1994年(平成6年)12月からは世界文化遺産として、国内外の多くの観光客を魅了している。




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<主な参考文献>
加藤 埋文 2021年『家康と家臣団の城』KADOKAWA
齋藤 慎一 2015年『徳川の城~天守と御殿~』江戸東京博物館
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖 1980年『日本城郭大系 第11巻 京都・滋賀・福井』新人物往来社
「史跡旧二条離宮(二条城)保存活用計画(令和2年3月発行)」

(寄稿)勝武@相模

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