戦国時代・江戸時代の武将、城郭など
恩田越前守と恩田伊賀守~沼田衆
恩田家は、上野・沼田庄恩田(群馬県沼田市)の土豪で、1561年の段階では沼田衆に、恩田孫五郎・恩田与右兵衛尉の名がみえ、上杉謙信の支配下に加わっていたとみられる。 1579年に北条氏政が沼田城を領国としたが、その後、武田勝頼の命を受けた真...
戦国時代・江戸時代の武将、城郭など
恩田家は、上野・沼田庄恩田(群馬県沼田市)の土豪で、1561年の段階では沼田衆に、恩田孫五郎・恩田与右兵衛尉の名がみえ、上杉謙信の支配下に加わっていたとみられる。 1579年に北条氏政が沼田城を領国としたが、その後、武田勝頼の命を受けた真...
信州・真田家は、武田家臣団の中でも有力であり、また、江戸時代においてはも存続したことから、戦国時代からの家伝文書や藩政史料などは比較的残されている。 ただし、江戸時代の1731年に、江戸の松代藩邸が焼失した関係で、失われた文書も多く、よく...
真田清鏡(さなだ-きよあき)は、真田幸隆の庶子とされ、母は羽尾幸全の娘とも?ある。 ※羽尾幸全の娘は、真田幸隆の正室だったとする説もある。 真田幸隆が真田の里を追われた際、上野に逃亡中の1541年、海野幸全(羽尾幸全)の屋敷に寄宿していた...
仙台真田家は、真田幸村(真田信繁)の2男・片倉守信を祖とする武家の名で、仙台藩士であった。真田幸村が大阪夏の陣にて討死し、嫡男・真田大助も果てたが、二男であった真田大八は、姉・阿菖蒲・おかね・穴山小助の娘などと共に、仙台藩の白石城主・片倉重...
真田幸隆・真田昌幸といった真田家の家紋は「六文銭」です。六連銭とも言います。真田家が六文銭を旗印や家紋にした意味は、皆さまご承知の通り、下記の通りになります。三途の川での渡し賃は、六文であると当時、信じられていたのです。旅人はいつ死んでも大...
真田十勇士とは戦国時代に、真田幸村に付き従ったとされる10人の家臣です。とは言え、物語の創作上の人物です。ただし、何人かは実在の人物をモデルにしていると考えられています。真田十勇士の起源は、講談を書籍にして発刊し、大正時代に大人気となった「...
真田家の家訓としては下記のような物が伝わっています。 真田の武士は 命を粗末にしない どんなことがあっても 生き延びること 草や、泥を食っても生きながらえること そして戦で九分九厘 死ぬと思っても 最後の最後まで 生きることの算段をして ...
そもそも、真田氏とはどのような出自であったのか? 諸説ありますが、まとめてみました。 真田氏(真田家)の先祖は信濃の東、現在の東御市付近を支配していた、豪族・海野氏であったと考えられています。 1400年、大塔の戦いで、信濃守護・小笠原氏...
海野六郎(うんの-ろくろう)は、真田十勇士に登場する人物で、実在した真田家の家臣がモデルとされている。 「真田三代記」では、海野六郎兵衛利一(1571年~1615年)として登場し、他に海野小平太がモデルとの説もある。 海野六郎兵衛利一は、...
於きた(於北殿・於北様、きた)は中野の箱山城主・高梨政頼の娘です。井上城主・井上清政(井上次郎座衛門)の養女になってから、真田家の跡取りである真田信綱に嫁いだと推定されますが、正室ではなく側室であったとも考えられます。ただし、真田信綱の妻は...