大戸真楽斎(おおと-しんらくさい)の本姓は浦野氏で、信州の滋野氏の一族であり、手古丸城主(大戸城主)であった。
岩櫃城主・斉藤憲広の妹を正室に迎え入れ、羽尾氏と鎌原氏の領地争いでは、斉藤氏・羽尾氏に荷担して、鎌原氏と争った。
その後、真田幸隆の岩櫃城攻略の際には、同族と言う事で真田勢に味方したようだ。
しかし、1580年3月11日、大戸真楽斎が謀反を企てたとしても、真田昌幸が岩櫃城代・海野長門守に命じて手子丸城を攻撃したため和睦した。
その直後と考えらる、同年1580年、武田勝頼の高天神城攻めに参陣したようで、大戸真楽斎と大戸個馬の兄弟が討死したとある。
その後、1582年、本能寺の変のあと、手古丸城が北条氏直勢によって落城した際に、大戸真楽斎が切腹したとも伝わる。
のちに手古丸城主(大戸城主)が、北条氏邦の支配下となると、大戸真楽斎の長子である大戸重次が手古丸城主となったが、豊臣秀吉の小田原攻め以降の動向は不明である。
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