真田信吉(さなだ-のぶよし)は、真田信幸(真田信之)の長男として、1595年に生まれた。
母は、この当時正室であったとも考えられる真田信綱の娘(清音院)。
この母は、のちに真田信幸が本多忠勝の娘・小松姫を迎えた際に、側室に降格となっている。
なお、稲姫(小松姫)が母であると言う説もある。
真田信吉の正室は酒井忠世の娘(松仙院)。
側室は侍女であった依田氏の娘(慶寿院)。
大阪の陣
父・真田信之が病となったため、1614年からの大坂冬の陣には、父の代理として、弟・真田信政や矢沢頼幸、木村土佐、半田筑後、大熊伯耆らと参戦し、本多忠朝の指揮下に入った。
もちろん、初陣であったが、真田丸の真田幸村とは戦場が違ったため、幸いにも刃を交える事は無かった。
しかし、当然、徳川家から内応するのではと疑われた為、立場は苦しいものがあったようだ。
また、真田幸村も真田信吉・真田信政の参陣を知り、真田の代名詞でもある六文銭の旗印を使用せずに、真紅の旗印を使い、気を使ったと言われる。
大坂城内でも真田兄弟の出陣は話題になったようで、木村重成は幸村の甥たちが鉄砲で討死などと言う不名誉な事にならないよう、鉄砲で狙うなと自分の隊に注意したと伝わる。
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1615年、大阪夏の陣では2000を率いて布陣し、井伊直孝の指揮下に入ったが、毛利勝永・浅井長房・竹田永翁らと戦闘になった。
この時、家臣が自分の楯になって鉄砲に討たれるなどの苦戦となり、29の敵首を挙げたが、32の死者を出し、豊臣勢に敗れて逃走したとも言われている。
そして、従五位下河内守に叙任され、翌年に父・真田信之が沼田城から上田城に移ると、24歳で沼田城主3万石となった。
沼田領は、真田家の支藩扱いである。
沼田藩の安泰を祈願して「城鐘」を鋳造もした。
父の隠居がなかなか許されなかったため、家督を継ぐことなく、疱瘡を患い1634年11月28日に江戸屋敷にて死去した。享年42歳。
父・真田信之より早い死であった。
遺骸は沼田の迦葉山弥勒寺にて荼毘(火葬)に付され、天桂寺に葬られたと言う。
後を継いだ長男・真田熊之助も早世したため、沼田領は次男・真田信利と、弟・真田信政に分割相続された。
・父・真田信之とは
・真田幸村とは
・弟・真田信政とは【第2代の松代藩主】
・本多忠朝と一心寺【真田の抜け穴・本多忠朝の墓】大阪の陣