第二次上田合戦~表裏比興による合戦までの経緯から合戦後の真田昌幸について

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1585年(天正13年)第一次上田合戦
大久保忠世鳥居元忠の率いる1万の徳川軍を2千の寡兵で勝利したことから全国に轟かせた真田昌幸

そして、15年後の1600年(慶長5年)に両軍は、上田で再び戦うことになります。




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第一次上田合戦は、天正壬午の乱の流れからになりますが、第二次上田合戦は
日本を二分する『関ヶ原御戦い』の煽りを受けたものでした。

経緯

◆太閤殿下の死
1598年(慶長3年)8月18日
全国を統一して天下人となった太閤・豊臣秀吉が、京の伏見城で亡くなります。
享年62

名もない百姓の身から関白、太政大臣にまで昇りつめ、天下統一に飽き足らず異国(朝鮮)にまで兵を進軍させた豊臣秀吉の最期は、あまりよいものではありませんでした。

この時、2度目の朝鮮出兵で多くの日本兵が非常に厳しい戦いを続けているにもかかわらず、それに関して全く思いを巡らすことがなかったのです。

豊臣秀吉にとっての一番の心配事は、自分が亡くなった後の幼い後継ぎ(豊臣秀頼)の将来のことでした。




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亡くなる前の豊臣秀吉は、豊臣政権を担う五人年寄と五人奉行の十人衆に対して、ひたすら懇願するばかりだったのです。
そこには、天下人としての片鱗など全くなく、無様な醜態を晒して亡くなっていったのでした。

*五人年寄(五大老):徳川家康、毛利輝元上杉景勝前田利家宇喜多秀家
 五人奉行石田三成、浅野長政、増田長盛長束正家、前田玄似

豊臣秀吉が存命時は、独特の人たらしとカリスマ性を発揮して、政権内での矛盾を制御できていましたが、亡くなると同時に様々な問題が沸き上がり、再び大きな争乱へ繋がる様相を呈してきたのです。

1.五人年寄(五大老)の権力争い
2.豊臣秀吉子飼いの武断派と官吏派家臣の対立
  武断派:加藤清正福島正則
  官吏派:石田三成、増田長盛
3.豊臣政権時に取り潰しや領地を削られた大名や武士など
4.豊臣秀吉の正室・北政所と側室・淀の方との確執

◆天下取りに向けた動き
五人年寄(五大老)の中でも大きな力を持ち始めていた徳川家康は、豊臣政権に相談することなく独断で動き出します。
それは、「豊臣秀次事件後」に豊臣秀吉が定めた「御掟」に逆らうものだったのです。

*御掟
 ・許可などなく大名間の婚儀を禁止
 ・大名同士が必要以上に昵懇になることを禁止
 ・誓紙交換の禁止
 ・喧嘩口論の禁止
 ・妻妾の多抱禁止
 ・大酒の禁止など

亡き豊臣秀吉が定めた「御掟」を平然と破る行為を見過ごせない五人奉行の筆頭奉行・石田三成は他の奉行と共に立ち向かいます。

しかし、豊臣秀吉が亡くなる前から次の天下を狙っていた徳川家康は、これまで長年築き上げてきた人間関係と政治力を行使して、石田三成を奉行職から解任させたのです。




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また、豊臣政権を維持するために動いていた五人年寄(五大老)の一人、前田利家が亡くなると徳川家康は前田家を潰す動きにでます。
徳川家康は、新当主の前田利長に謀反の疑いをかけたのです。
これを「加賀藩・慶長の危機」といいます。

前田利長は、次の天下は徳川家康の掌中にあることを父・前田利家から聞かされていたので母親(芳春院:まつ)を人質に出して降伏しました。

◆直江状
前田家が徳川家康に服従したことで、次に標的となったのは上杉景勝でした。
徳川家康は、上杉景勝が重臣・直江兼続に命じて神指城を築城させ、軍事力を増強して謀反を企てようとしているとして、会津討伐の口実をつくったのです。

これに対して、上杉景勝の重臣・直江兼続は、徳川家康に手紙「直江状」を送ります。
これが、徳川家康の逆鱗に触れるキッカケとなり、会津討伐(上杉討伐)へと繋がっていきます。

◆出陣命令
1600年(慶長5年)6月
徳川家康から関東の諸大名に対して会津征伐の陣触れと大阪城で評定が開かれます。
評定において会津征伐が決定し、天皇からも勅令を受けて大義名分を得た徳川家康。

会津征伐の出陣命令は、第一次上田合戦後に徳川家康の与力大名になった上田城主・真田昌幸にも届いていました。

犬伏の別れ
1600年(慶長5年)7月21日
真田昌幸率いる真田軍が宇都宮城の手前にある下総国・犬伏宿の大庵寺に到着後、佐和山城で蟄居していた石田三成から密書が届きます。

密書の内容は、徳川家康の罪状について書かれており、会津征伐についても豊臣秀吉との誓と遺言に背いたもので、豊臣秀頼を見捨てたことになる。
また、徳川家康を討つために毛利輝元、宇喜多秀家など多くの大名が挙兵に参加してくれることになったので、豊臣秀吉の恩を忘れていなければ豊臣秀頼に忠節を誓ってほしいというものでした。




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石田三成からの密書によって、徳川家康討伐の挙兵知った真田昌幸。
大庵寺近く犬伏新町の薬師堂で父子三者による協議をすることにします。
しかし、どちらかに真田家がつくかで明暗が大きく分かれるため、結論を中々出せず協議は難航していました。

考え抜いた真田昌幸は、真田家が東軍(徳川)と西軍(石田)に別れて戦うことで、どちらが勝っても真田家が生き残れる方法を提案します。

長男の真田信之(信幸)は徳川家康の重臣・本多忠勝の娘・小松姫を正室として迎えていたため東軍(徳川方)。
次男の真田信繁(幸村)は石田三成と共に挙兵した大谷義嗣の娘・竹林院を正室に迎え入れていたので西軍(石田方)に別れます。
また、真田昌幸は豊臣への恩恵が強いということで西軍(石田方)につくというものでした。

この案についても激論となりましたが、これが真田家にとって最善の方法であるということで話しが纏まりました。

これには、もう一つの逸話が残っています。
父子三者の協議は密談であり、薬師堂には誰も来てはいけないと家臣に命じてありました。
しかし、いつまでも戻ってこないことを心配した家臣・河原綱家が様子を伺いに来たところを真田昌幸に見つかってしまいます。

激怒した真田昌幸は、河原綱家に向かって下駄を投げつけると顔面にあたり歯が折れてしまったというものでした。
この逸話からも話が纏まらず困窮していたのが伺えます。

東軍と西軍に別れて戦うことが決まった真田家は、真田昌幸と真田信繁(幸村)は上田城に戻り、真田信之は徳川家康の待つ小山へと向かったのです。




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真田家にとって重大な決定をした地が犬伏だったことから「犬伏の別れ」と呼ばれるようになりました。

◆会津討伐の中断
小山で在陣していた徳川家康のもとに伏見城からの使者がやってきます。
その手紙は伏見城の留守居・鳥居元忠からのもので、石田三成が会津討伐に参加した大名の妻子を大阪城内に人質にとり、毛利輝元、宇喜多秀家などに賛同を呼びかけて挙兵したと書いてあったのです。

石田三成の挙兵を知った徳川家康は、会津討伐を中断して石田三成との戦いに切り替えます。

伏見城の戦い関ヶ原の戦いの前哨戦」
1600年(慶長5年)
7月17日
石田三成と共に挙兵の準備を整えていた三奉行(前田玄似、長束正家、増田長盛)は、大坂城西の丸にいる徳川家康の留守居役を追放すると、各方面に向けて徳川家康に対する13ヶ条の弾劾状を発布します。

7月18日
宇喜多秀家、小早川秀秋など4万の大軍が、徳川家康の重臣・鳥居元忠が守る伏見城へ攻撃を開始します。
この時、鳥居元忠が率いる伏見城の防衛兵は2千足らずでした。

7月19日
本格的な戦闘が開始されると、籠城していた兵たちが出撃して前田玄以、長束正家らの屋敷を焼き払うなどして先手を打ちます。
対する西軍も、昼夜を問わず鉄砲などの攻撃を繰り返しますが、鳥居元忠を中心とする堅い防御によって攻めきれないでいました。

7月22日
そこで、さらに圧力をかけるべく大筒・石火矢による攻撃を加えたり、堀を埋めるなどして攻撃しますが、それでも強固な防御に綻びが見られず攻めあぐねていたのです。




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8月1日
鳥居元忠が西軍の鉄砲頭・鈴木孫三郎(鈴木重朝)に討ち取られたことで落城へと繋がっていきました。
この落城によって、松平家忠、内藤家長ら以下800人が討死したと言われています。
この伏見城の戦いは、関ヶ原の戦いの前哨戦となったのでした。

◆西へ進軍
小山の軍議で、今後の方針を決めた後、徳川家康に賛同した東軍の諸隊は次々と西に向けて進軍を開始します。

徳川家康は、徳川に味方する東軍の諸大名を東海道から西へ進軍させ、自ら江戸城に留まりました。

また、三男の徳川秀忠に3万8千の軍勢を預けると別動隊として中山道を進ませ、信濃の真田昌幸を平定しながら西へ進むように命じます。
東海道と中山道の二方面作戦をとった徳川家康。

第二次上田合戦

中山道を進軍してきた徳川別動隊は、信濃・小諸城に本陣を構えると真田昌幸に降伏勧告をだします。

真田昌幸は、降伏勧告に応じる構えを見せますが、3日経ってから態度を一変して徳川軍にたいして挑発行為にでたのです。

この時の真田軍の兵力は2千5百、対する徳川軍は3万8千。
第一次上田合戦の3倍以上の兵力を相手にしなくてはいけない真田昌幸。

真田の挑発行為を受けて徳川軍は総攻撃を開始します。
しかし、第一次上田合戦での反省を活かし、上田城を攻める前に砥石城を攻め落とすことにしたのです。

砥石城の先陣は、真田信之。
対する砥石城の守将は真田信繁(幸村)。
真田信繁(幸村)は、真田信之との対戦を避けるだけでなく上田城の守備を固めるため上田城へ移動します。
これは、一説では真田昌幸の作戦の1つで、戦略要地を明け渡して油断した敵を誘い込もうとしたとも言われています。

その後も繰り返し徳川軍を挑発する真田の兵たち。
城に殺到してきた徳川軍は、上田城の本丸まで難なく辿り着きます。
そして大手門まで徳川軍を誘き寄せると、真田軍は鉄砲による集中砲火を浴びせたのです。

次に真田信繁(幸村)の遊撃部隊が徳川軍の側面に突撃したため、第一次上田合戦と同じように大混乱に陥ってしまいます。
その後も真田信繁(幸村)の遊撃部隊による奇襲攻撃などによって、徳川軍は小諸まで撤退を迫られたのです。




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徳川軍の撤退を知った真田昌幸は、徳川軍が神川を渡っていることを確認すると、上流の築堤を決壊させます。
これにより、徳川軍の溺死者が多数出るという結果を招いたのです。

第二次上田合戦も真田昌幸の奇策によって大勝利となります。
この戦いで、徳川秀忠の徳川軍(別動隊)は足止めを食ってしまいました。
そして、「関が原の大遅参」へと繋がっていくのです。

一方の真田昌幸は、西軍に加担することで東軍に大打撃を与えたのでした。

上記の話は寡兵の真田軍が大軍の徳川軍を打ち破ったことで有名ですが、実はこれには諸説あります。

第二次上田合戦で大規模な戦いが行われたという史料が残っていないのです。
ただ、徳川軍が刈田をおこなったことで、真田軍と小競り合いをしたという記載は残されています。
このことから、個人的には以下の上田合戦が有力だろうと考えています。

新説(真説⁈)第二次上田合戦
1600年(慶長5年)9月2日
徳川秀忠が率いる徳川別動隊が信濃の小諸に着陣。

小諸に着陣したことを知った真田昌幸は、この別動隊に参陣していた真田信之を通して助命を懇願します。
ところが、翌日(9月3日)になると態度を一変します。
突然、徳川軍に対して挑発的な態度を取り始めたのです。

自尊心を傷つけられた徳川忠秀は、上田城の真田を殲滅するため全軍で進軍を開始します。
まずは、真田信繁(幸村)が守る上田城の支城・砥石城に真田信之の軍勢を差し向けて一族同士で戦わそうとしました。

真田信之の軍勢が向かってきていることを知った真田信繁(幸村)は、戦わずして上田城へ回避します。
これにより、戦うことなく砥石城を接収した徳川軍。




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9月6日
徳川秀忠は、牧野康成らに命じて上田城下の稲の刈取りを命じます。
これを阻止しようと上田城から数百人の軍勢が出撃しますが、徳川軍によって瞬く間に蹴散らされてしまいました。

9月9日
お互い手立てがなく、上田城周辺で小競り合いが続いていたところに徳川家康からの使者がやってきます。
手紙の内容は、徳川家康の本隊も決戦に向けて出陣したので美濃に合流するようにとの命令でした。

徳川秀忠は、上田に抑えの兵を残して急ぎ転進することにします。
徳川秀忠の別動隊が上田を去ってからも、抑えとして残っていた徳川の兵と上田の兵の間で小競り合いはありましたが、大きな戦に繋がることはありませんでした。

世紀の大遅参
1600年9月1日
江戸に留まっていた徳川家康は、満を持して3万の軍勢を率いて出陣します。
この時、信濃・上田城を攻略中の徳川秀忠にも美濃へ進軍するようにと使者を送り出しました。

徳川家康の本隊は、9月13日に岐阜に着陣しますが、徳川秀忠の別動隊がやって来ることはありませんでした。
結局、徳川秀忠が徳川家康のもとに到着したのは、関ヶ原の戦いから5日後の9月20日だったのです。

この失態によって徳川秀忠は、徳川家康から叱責を受けます。
しかし、これは徳川家康の無理な命令による失態ともいえるものだったのです。

信濃・上田に徳川家康からの使者が到着したのは9月9日。
そして、使者が持ってきた手紙には「9月9日までに美濃に合流するように」との内容が書かれてあったのです。

これを読んだ徳川秀忠は大慌てだったと思います。
信濃・上田から美濃(赤坂宿)まで250㎞以上もあり、さらに険しい山間を大軍で行軍するには最低でも10日は要するのです。

一説では、使者の到着が遅れたのは大雨によるものだったとありますが、不運としか言いようがありません。
また、無理な命令に関しては、天下人となる徳川家康の責任に絶対できないため、徳川秀忠が初陣で失態をした凡庸な後継者として片付けられてしまったものと思われます。

◆真田昌幸と信繁(幸村)のその後
関ヶ原の戦いで西軍の敗北を知った後も上田城に籠城していた真田昌幸と真田信繁(幸村)。
やがて、真田信之による説得に応じて降伏します。
だが、再三にわたる徳川に対する謀反により、真田昌幸と真田信繁(幸村)は領地を没収され死罪が下されました。




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これに対し、真田信之は父(昌幸)と弟(信繁)を何とか助けたい一心で上洛して徳川家康に赦免を願い出ます。
さらに、伏線を敷くために義父・本多忠勝、井伊直政など徳川家重臣にも助命嘆願をしたのです。

本来であれば、1度だけでなく2度も徳川家康に背いて戦ったことからも死罪は免れませんが、真田昌幸の行動が功を奏して真田父子は高野山九度山)への配流となりました。

これまでの真田の領地に3万石を加増された真田信之は、信濃・上田で真田家の存続に努めます。

配流中の生活は、生活費に困窮することもあり、真田信之に度々援助してもらっていたようです。
また、これまでの真田昌幸の面影は消えて気力も衰え、隠居生活とは言い難かったようです。
最晩年は、病気がちで寝たきりのようでした。

1611年(慶長16年)6月4日
配流先の高野山(九度山)で真田昌幸は静かに亡くなりました。
享年65




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真田信繁(幸村)は、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で徳川と大一番を繰り広げ、やがて江戸幕府や諸大名から「日本一の兵」と評されるのでした。

(寄稿)まさざね君

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