相木森之助 真田家の家臣・真田十勇士

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 相木森之助(あいきもりのすけ、相木盛之助、相木幸雄)は、武田家の一族・加賀光経(加賀美四郎)の家臣。
 加賀美四郎の腹心であったとされるため、筆頭家老と推定でき、真田三代記では勇者として登場する。

 賀美家は、武田氏祖・武田信義の弟・加賀美遠光が、甲斐国加賀美庄(若草町加賀美)を所領として、加賀美氏を称したもので、その子として長男から順に秋山太郎光朝、小笠原二郎長清、南部三郎光行、加賀美四郎光経(加賀美光清)、於曾五郎光俊などの名があり、いずれも各氏の発祥となっている。

 1529年頃、仕えていた加賀美四郎が甲斐の武田信虎の勘気に触れて討伐を受け離反すると、武田家から仕えていた真田幸隆の家臣・伊勢崎五郎兵衛と穴山源覚に生け捕りされて、以降は真田家の家臣に加わったとされる。
 加賀美四郎は小幡日浄、原大隈守、鯰江頼母ら武田勢に討ち取られた。
 しかし、史実ではこの1529年の段階で、まだ真田幸隆は武田家に仕えていなかった為、間違えか後世の創作と言うよりは、まだ武田信虎と争っていた真田家を頼って逃亡したのではとも考えてしまう。

 また、別の史料では1529年に、武田信虎の勘気に触れた加賀美虎光(加賀美信濃守虎光)を討ったとあるため、どうも、加賀光経(加賀美四郎)と加賀美虎光は同一人物の可能性も否定できない。

相木信房との関連性

 相木氏と言えば、1543年、武田信玄に降伏した相木城主・相木昌朝(相木市兵衛)などが有名だ。
 この相木昌朝は長窪城主・大井貞隆の家老を務めていたため、その一族だったのか、もしくは混同を受けたのかも知れない。
 真田家の家臣には相木荒次郎と言う名も見受けられる。
 また、相木昌朝の長女が、真田幸隆の次男・真田昌輝に嫁いでいる。嫁いだ年は不明だが、真田昌輝が18歳の時と仮定すると1561年頃となる。

 相木森之助は真田三代記によると、1600年、徳川家康と石田三成による関ヶ原の戦いの後、相木森之助は真田昌幸真田幸村の父子に従って、紀州・九度山へ同行した275人のうちの1人となっている。

 興味を引くのは、相木盛之助と言う人物の墓碑が、尼子勝久が再興を図った際の拠点・真山城にあることだ。

 真山城(島根県松江市)には、相木盛之助と更科姫の墓がある。この2人は、有名な山中鹿之助の両親だとする伝承がある。




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 実際の所、山中鹿介の両親は、父・山中満幸、母・なみ(浪子、立原綱重の娘)とされているが、信憑性には欠け出自には謎が多いのも事実だ。

 おもしろい事に、長野の伝承では山中鹿之助は相木盛之介(相木森之助、相木幸雄)の子であり、相木市兵衛昌朝の孫にあたるとされている。
 すなわち、相木昌朝の子が相木森之助で、その子が鹿之助なのだと言う。
 相木森之助は相木美濃守信房(依田信房、相木采女介幸雄、相木幸雄)と同一人物で、正室は楽岩寺馬之介の娘・更科姫。1534年に村上義清の武芸指南役・井上九郎の仲人により婚姻の儀を執り行なわれ、見上城で生まれた男子が山中鹿之助だと言う。相木森之助は1545年10月に馬場美濃守から名を賜り相木美濃守信房と改名し、遠州・諏訪原城主となった。

 相木昌朝は1516年生まれなので、その次男が相木美濃守信房(依田信房)だとするには1534年に結婚するにはとても早すぎる為、次男と言うよりは弟だったと考えるとつじつまも合う。

 一方、子の鹿之助は15歳のとき元服すると相木鹿之助幸盛と称し、文武を鍛錬する為、京に赴いたとされる。
 そして、京都の祇園で九条家の香姫らが暴徒に襲われていたのを救った縁で、九条家の屋敷に招かれると、のちに「尼子の家臣に加わって尼子家を盛り立ててほしい」と懇願されたと言う。
 そして、1561年に尼子家の家臣・山中家の養子に入ると、姓を相木から山中にかえて「山中鹿之助幸盛」と名乗り、以後、尼子家の為に奮戦する事となったとする伝承がある。

 話がだいぶそれて申し訳なかったが、相木森之助の話に戻したい。
 相木森之助=依田信房だとすると、1575年に長篠の戦い武田勝頼が大敗したあと、諏訪原城は徳川家康に攻められて、この時、依田信房も討死したとされる。
 尼子十勇士の話もしかりで、関ヶ原の戦い後に、真田昌幸と真田幸村に従った人物と同一かまでは、不詳としか言いようがない。

 写真出典:西国の山城
 参考:孤独の晩酌
 引用元:相木森之助