高梨内記と娘きり【真田信繁の側室】
高梨内記は真田昌幸の家臣で、九度山に幽閉された際に、同行した家臣16人の1人です。そして、高梨内記の娘・采女(うめね)が、真田幸村(真田信繁)の側室となり、次女・於市と、3女・阿梅(おうめ)を産んだとされます。ただし、於市は早世し、阿梅(お...
高梨内記は真田昌幸の家臣で、九度山に幽閉された際に、同行した家臣16人の1人です。そして、高梨内記の娘・采女(うめね)が、真田幸村(真田信繁)の側室となり、次女・於市と、3女・阿梅(おうめ)を産んだとされます。ただし、於市は早世し、阿梅(お...
真田之親(さなだ-ゆきちか)の生没年不詳。 真田幸村(真田信繁)の4男とされるが、母などは不明。 別名としては石田之親、石田権左衛門とある。 真田幸村が九度山で蟄居していた際に、百姓の娘に産ませた子とも伝わる。 ただし、大坂冬の陣の前には...
真田大八は、1612年、真田幸村(真田信繁)の次男として、九度山で生まれた。幼名が大八。母は正室・竹林院(安岐姫)とされていますが、この真田大八に関してもひとつの説としてご紹介する。1614年、大阪冬の陣では、兄・真田大助(14歳)や、姉・...
1604年生まれとされる阿梅(おうめ)は真田幸村の娘で、母は高梨内記の娘・采女(うめね)とも言われる。※采女とは高梨内記と言う武将の事を差しているとも推定されていますし、母親に関してはもちろん諸説あります。この高梨内記は、真田昌幸と真田幸村...
あぐりは真田幸村の4娘として誕生しました。 母は正室。竹林院ですが、あぐりの生没年は不詳です。 母の説では、高橋内記の娘説もあるようです。 あぐりと母・竹林院は、大阪夏の陣の際、紀伊にて隠れていましたが捕縛され、京都にいた徳川家康に引き渡...
奥村弥五兵衛(おくむらやごべえ)、奥村弥五兵衛光親(みつちか)、奥村光親は、1552年生まれの真田家の草の者。 奥村弥五兵衛(奥村光親)の父・弥介は甲賀出身の忍びで武田信玄に仕えており、その後、真田昌幸の忍者(諜報活動)として仕えた。 ...
真田昌親(さなだまさちか)は、1583年に生まれた真田昌幸の4男(3男とも?)。通称は内匠。 母に関しては某氏としかなく詳細は不明。 元服すると信濃内村郷平井村に住んだようで、1600年、関ヶ原の戦いの際には、兄・真田信之に従って、徳...
九度山は、高野山への入口にあたる北谷にある。 北側に紀ノ川の流れを望み、高野山の東北を繞って、紀ノ川へと注ぐ丹生川を見下ろす「丘」の中腹に、真田屋敷があった。 上田城にいた際の居館とは比べ物にならないが、大台所のまわりに、家来・小者や侍...
真田信繁にござる。江戸時代からは真田幸村?とも呼ばれているようじゃが、まぁ、ワシはどちらでも良いぞ。 さて、いつもは「こっち」で出没する機会が多いのじゃが、今回は特別に遠路はるばるやってきたでござるよ。 それでは、簡単にワシ「真田幸村(真...
池田綱重(いけだつなしげ、池田長門守綱重)は真田昌幸の家臣で、砥石城代を務めた時期もあったと言う。 真田昌幸の話によると「真田家随一の奇襲の名人」とされ、徳川勢との第一次上田城の戦い(上田合戦)では、池田綱重が鉄砲隊を率いて、徳川の先鋒部...