豊臣大坂城本丸の現状
豊臣秀吉が築いた大坂城(以下、「豊臣大坂城」)の中枢である本丸は、大坂夏の陣で焼失し、江戸幕府が築いた大坂城(以下、「徳川大坂城」という)の再築工事によって地中に埋められている。
現在、国の特別史跡に指定されている大坂城跡には、徳川大坂城の建物などは現存するが、豊臣大坂城に関する遺構の痕跡はみられない。
そのため、豊臣大坂城の実態は文献史料や絵画資料などから推定するしかない状況であり、この詳細については、以下の記事にまとめたので、参照いただきたい。
・【豊臣秀吉と城】「豊臣大坂城」の特徴を探究する~縄張り(構造)・建物を中心として~
豊臣大坂城の絵図の中でも、特に1960年(昭和35年)に発見された「豊臣時代大坂城指図」(中井家蔵)は、豊臣大坂城の本丸を描いた絵画史料として信憑性が高く評価されている。
それによると、豊臣大坂城の本丸は周囲の堀を含めて東西約300m、南北約450mの長方形を呈し、東・北・西の三面は、水堀が鈎形(かぎかた)に囲み、南面と南西部には空堀がある。
南面の西端近くに大手虎口(こぐち・城の出入口)があり、土橋を渡って西方向にある桜門をくぐり、塀に沿って右折すると表御殿がある。
本丸の中央に約100m四方の詰の丸が二重の石垣で囲まれており、その中央部には奥御殿が描かれている。
ただし、豊臣大坂城の本丸の実態を解明するには、文献史料や絵画資料に加え、地下に眠る遺構の状況を知ることが不可欠である。
そこで、1959年(昭和34年)、大阪市と大阪市教育委員会らが「大坂城総合学術調査団」を組織し、豊臣大坂城の実態を解明すべく調査を始めた。
その後、財団法人・大阪市文化財協会などによる発掘調査もおこなわれ、貴重な成果が蓄積されている。
豊臣大坂城本丸の石垣
豊臣大坂城の本丸があった場所は、現在、国の特別史跡に指定されているため、開発に伴う発掘調査はほとんどおこなわれていない。
こうした中、1959年(昭和34年)、大阪城総合学術調査の一環であるボーリング調査をきっかけに、地下約7.3mの位置に埋没している石垣が確認された。
この石垣は高さ4m以上あり、石垣上端には粘土が張られており、被災の痕跡があった。
築石は自然石を用いた野面(のづら)積みで、徳川大坂城より古い時期の石垣であったが、この時点では豊臣大坂城の石垣と断定することは慎重であったという。
翌1960年(昭和35年)に「豊臣時代大坂城指図」が発見され、この指図には、本丸が3段構造(上段から「詰ノ丸」・「中ノ段」・「下ノ段」)に描かれていることが確認された。
そこで、発見された石垣を指図と照合・検討した結果、「中ノ段」の石垣であることが考えられるようになったのである。
重要文化財「金蔵」の東側で1984年(昭和59年)10月から1985年(昭和60年)4月にかけて、配水池改良工事に伴う発掘調査がおこなわれた。
その結果、地表面から約1m下で「詰ノ丸」を囲む高さ約6mの石垣(以下、「詰ノ丸石垣」という)や「中ノ段」で礎石建物などの遺構が検出された。
検出された石垣や遺構は調査終了とともに埋め戻されたが、2013年度(平成25年度)からは、この石垣の公開施設を建設するための発掘調査が大小6回おこなわれており、新たな成果が得られている。
「詰ノ丸」石垣について、これまでに判明している主なことは以下のとおりである。
〇 詰ノ丸石垣の位置は「豊臣時代大坂城指図」との照合から、ほぼ「詰ノ丸」の東南隅櫓(やぐら)の東南出隅(ですみ)に相当する。
〇 石垣の最上部は内側にも低い石垣を積み上げた石塁構造であり、石塁上面の幅は南北約6.5m、東西約4.5mを測る。
〇 石垣の南面は「中ノ段」から立ち上がり、上面には約20㎝の厚さで焼土層が堆積し、東面北端は出隅上部を中心に石垣が崩れている。
〇 築石は自然石を積んだ野面(のづら)積みで、出隅は不完全な算木積みであり、石の表面には高熱を受けた跡が多くみられる。
〇 南面の築石は大型のものが多く、積み方も横方向に目地(めじ)がそろうなど整えられているなど、東面に比べて見栄えが良い。
〇 矢穴痕が残る築石が東面で1箇所、南面で2箇所、また詰の丸の暗渠(あんきょ)の蓋石にも1箇所ある。
〇 築石には転用石もみられ、出隅部に建物礎石が3点と古墳時代の石棺未成品と考えられる石が1点のほか、東面北端石にも礎石の転用であることが確認されている。
〇 間詰石(まづめいし)には石塔、石臼片、瓦、陶器片などが使われている。
〇 石垣の屈曲部には瓦葺きの櫓が建っていたことが、や黒田家伝来の「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵)によって確認されている。
以上であるが、この石垣は自然石を野面積みであり、出隅は不完全な算木積みであることから、豊臣大坂城の石垣と考えられる。
石垣の上面に焼土層が堆積し、出隅上部を中心に石垣が崩れているのは、大坂夏の陣(1615年)による被災か徳川期の破却の可能性が指摘されている。
豊臣大坂城本丸の遺構・遺物
これまで「中ノ段」の発掘調査では、礎石建物や石組溝などの遺構、瓦などの遺物が発見されている。
礎石建物は、東西方向に大型と小型の礎石を交互に並べられており、大型の礎石の寸法は、桁行(けたゆき・長辺)が約2.0m、梁間(りょうま・短辺)が約1.4mである。
小型の礎石には内側に接して別の礎石が残る箇所があるが、そこには大引きを支える束柱(つかばしら)があったと推定されている。
建物の北側に並行してある雨落ち溝からは、焼土とともに漆喰(しっくい)片が検出されており、漆喰壁の建物であったことが分かる。
また、礎石建物や石組溝には大坂夏の陣(1615年)で焼失した痕跡が明瞭に残されている。
礎石建物からは焼けた瓦が、建物跡を覆うように出土しており、この建物は瓦葺きであったことが分かるが、「豊臣時代大坂城指図」(中井家蔵)には記載されていない。
出土した瓦の年代は文禄年間(1592年〜1596年)から慶長年間(1596年〜1615年)の初めごろと推定されている。
また、この建物が建てられる前に掘られた土壙からも廃棄された瓦が出土しているが、その年代観は天正年間(1573年〜1592年)末から慶長年間(1596年〜1615年)の初めごろとされている。
以上のことから、この瓦葺きの建物は、豊臣大坂城の築城からかなり遅い豊臣秀吉の晩年に近い時期に恒久的な施設として建てられ、大坂夏の陣で廃絶したものと考えられる。
そのほか、中ノ段からは、豊臣大坂城築城当初の遺構と考えられる瓦組の溝や小さな土壙、石垣の周囲からは柱穴や小規模な石列の一部、中の段地表面でも小さな穴や土壙が多く検出されている。
これらの遺構は石垣普請などの一時的な作業に伴うものが多いと考えられている。
瓦以外の遺物は大坂夏の陣後に片づけられた焼土層から、未使用の鉛製の鉄砲玉2点が石垣の周辺から、鉛インゴットが礎石建物の内部から出土している。
鉛インゴットとは、鉛を精製して一塊としたもので、鉛同位体比の分析結果から国産のものと推定されている。
本丸の発掘調査では、大坂夏の陣による焼土層を覆った盛土や瓦組溝の遺構などから豊臣期の瓦が多数出土している。
その中でも、金箔を押した「円形棟板(むねばん)瓦」の破片が含まれていることは、豊臣大坂城本丸の建物を考える上で注目されている。
円形棟板瓦は豊臣期の城郭において、屋根の頂部(棟)を豪華に飾る瓦の一つで、円形のほかに方形のものもある。
これまで、国内で確認されている最大の円形棟板瓦は、1954年(昭和29年)に大阪合同庁舎第1号館の建設工事中に採集されたと伝わる直径45㎝の「豊臣期金箔押菊文大飾瓦(かざりがわら)」(大阪城天守閣蔵)である。
本丸の発掘調査で出土した円形棟板瓦の破片は、復元すると直径48㎝を測り、国内で最大のものとなった。
円形棟板瓦以外の瓦も出土しており、そのうち軒平瓦については、瓦当面の横幅の最大値(上弦幅)を計測し、小型(21㎝~25㎝)・中型(27㎝~30㎝)・大型(32.6㎝)に分類されている。
その数は、小型の瓦が5点、中型が5点、大型が1点であり、それぞれの建物の規模が推定されている。
「豊臣時代大坂城指図」には、調査地区周辺に石垣の上に建つ櫓や、曲輪内を区画する塀などの施設が描かれており、それと合わせると小型の瓦が塀、中型が櫓の瓦に該当するものと考えられている。
1点だけ出土した大型の瓦に「剣菱三様唐草文(けんびしさんようからくさもん)」があるが、その瓦は豊臣秀長の居城・大和郡山城(奈良県大和郡山市)の天守にも使用されている文様がみられる。
これらのことから、大型の瓦は櫓よりも大規模な天守などの大型建物で使われていた瓦が1点だけ混ざり込んだものと考えられている。
豊臣大坂城本丸の実態解明
1984年度(昭和59年度)に「金蔵」東側でおこなわれた発掘調査では、豊臣期の詰ノ丸石垣が発見され、豊臣大坂城本丸の石垣が良好な状態で地下に存在することが明らかになった。
豊臣大坂城本丸の石垣については、1959年(昭和34年)のボーリング調査で、本丸南西部で「中ノ段」の石垣と推定される石垣が発見された。
それ以降も1996年度(平成8年度)にかけて継続的にボーリング調査がおこなわれ、2013年(平成25年)からは精度の高い「スクリューウエイト貫入試験調査」が現在も継続されている。
こうした調査の成果をもとに、「豊臣時代大坂城指図」に描かれた石垣や堀の位置の復元などが進められている。
また、豊臣大坂城本丸の発掘調査では前述したように、国内最大に復元が可能な金箔を押した「円形棟板瓦」の破片をはじめ多数の瓦が出土している。
出土瓦を大きさから大型・中型・小型に分類し、それぞれの建物の規模や性格などを明らかにする研究も進んでいる。
1984年度(昭和59年度)の「金蔵」東側での発掘調査では、瓦葺きの礎石建物も発見され、その構造や建物の性格などが明らかになりつつある。
なお、詰ノ丸石垣は発掘調査が終了した時点で埋め戻され、現状では豊臣大坂城の石垣はみられない。
そこで、大阪市により2013年(平成25年)から豊臣大坂城の詰ノ丸石垣を公開展示する施設の建設が進められてきた。
石垣公開施設は2025年(令和7年)4月1日に「大阪城 豊臣石垣館」の名称でオープンすることが、2024年12月13日に発表された。
・大阪市:報道発表資料「大阪城 豊臣石垣館」がオープンします
この施設は地上1階、地下1階で、地上階はガイダンスルームとシアタールーム、地下階は石垣展示ホールである。
ガイダンスルームでは、石垣発見時の状況や、豊臣大坂城と徳川大坂城との違いなどについて理解を深め、
シアタールームでは、大坂城の歴史の映像を観ることができる。
地下階の石垣展示ホールでは、地下に眠っていた豊臣大坂城の石垣を直接見ることができる。
豊臣大坂城本丸の場所は、現在、国の特別史跡の範囲内であるため、今後も開発に伴う発掘調査の機会は、それほど多くはないが、2013年(平成25年)からの石垣公開施設建設に伴う発掘調査や「スクリューウエイト貫入試験調査」などにより貴重な成果が蓄積されている。
ボーリング調査や発掘調査などの成果を、文献史料や絵図類などと照合しながら学際的な研究を深めることで、豊臣大坂城本丸の実態は解明されつつある。
今後、解明された豊臣大坂城本丸の実態が広く発信され、学校教育などさまざまな場で活用されることを期待する。
<主な参考文献>
笠谷 和比古・黒田 慶一 2015年『豊臣大坂城 秀吉の築城・秀頼の平和・家康の攻略』新潮社
「関西考古学の日 2024」実行委員会 2024年「関西考古学の日 2024 記念講演会『豊臣期大坂城と関西の織豊期城郭』資料集」
鈴木 重治・西川 寿勝 編著 2006年『戦国城郭の考古学』ミネルヴァ書房
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖、他 1981年『日本城郭体系 第12巻 大坂・兵庫』新人物往来社
平井 聖・小室栄一 2001年『図録 日本の名城』河出書房新社
(寄稿)勝武@相模
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