概要
大阪の中心に位置する「大阪城公園」は現在、「大阪城天守閣」や歴史建造物が建ち並び、外国人を中心に多くの観光客が訪れている。
公園内の旧大坂城域(約73.5万㎡)は、1953年(昭和28年)3月に国の特別史跡(「特別史跡大坂城跡」)に指定された。
また、同年6月には指定地内に現存する櫓(やぐら)などの建造物13棟も重要文化財に指定されている。
その建造物は、乾(いぬい)櫓、千貫(せんがん)櫓、金蔵、金明水井戸屋形(きんめいすいいどやかた)、一番櫓、六番櫓、焔硝蔵(えんしょうぐら)、大手門、大手門南方塀、大手門北方塀、多聞(たもん)櫓北方塀、多聞櫓、桜門である。
また、1997年(平成9年)9月には、1931年(昭和6年)に復興されて博物館となっている天守が「大阪城天守閣」という名称で登録有形文化財に指定されている。
ただし、現在の大阪城と現存する建造物は、1620年(元和6年)から2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)の命で諸大名47家により築城・建築されたものである。
豊臣秀吉が築城したことで知られ、豊臣政権のシンボルであった豪華絢爛(けんらん)な大坂城(以下、「豊臣大坂城」という)は、大坂冬の陣・夏の陣(1614年・1615年)により完全に破壊された。
江戸時代初期に築城された大坂城(以下、「徳川大坂城」という)は、豊臣大坂城の特徴をどこまで引き継いでいるのであろうか。
本稿では、徳川大坂城について、その築城経緯や縄張り(構造)を踏まえながら探究する。
<参考>「大阪城公園」へのアクセス
【大阪メトロ】
谷町線:谷町四丁目駅1-B 番出口、天満橋駅3番出口
中央線:谷町四丁目駅 9 番出口、森ノ宮駅 1 番出口・3-B 番出口
長堀鶴見緑地線: 森ノ宮駅 3-B出口・ 大阪ビジネスパーク駅 1 番出口
【JR】
大阪環状線:森ノ宮駅、大阪城公園駅
東西線:大阪城北詰駅
【京阪電気鉄道】 天満橋駅
徳川大坂城の築城経緯
大坂夏の陣(1615年)で大坂城が焼失した後、徳川家康は孫の松平忠明(ただあきら)を大坂城主(10万石)として大坂城跡の整理を命じた。
松平忠明は大坂に留まっていた西国の諸大名の軍勢を指揮して焼け跡の整理に努めたが、城下町の整理と復興を優先させた。
道頓(どうとん)堀川(南堀川)の掘削工事や寺院の統廃合、町割りなどをおこない、避難していた住民が徐々に大坂に戻ってきた。
城下町の復興に目処がたった大坂は、1615年(元和元年)に江戸幕府の直轄領となり、大坂城は城代が管理することになった。
1620年(元和6年)、2代将軍・徳川秀忠が西国・北陸の諸大名47家に大坂城の再建を命じ、徳川大坂城の築城が始まった。
築城工事は藤堂高虎を総奉行とし、諸大名に工事を分担させる「天下普請(ぶしん)」でおこなわれた。
その工事は1620年(元和6年)から1630年(寛永7年)にかけて、第1期から第3期までの10年間にわたっておこなわれ、その概要は以下の通りである。
【第1期工事(1620年~1622年)】
47家の諸大名が動員され、主に、二の丸の北・東・西面の石垣と、北の外曲輪(そとくるわ)の石垣の普請がおこなわれた。
また、小堀政一(こぼり まさかず・遠州)と山岡景以(かげもち)が作事奉行に任命され、櫓や多聞の建築も進められ、現存する千貫櫓と乾櫓は、この第1期工事で完成したという。
【第2期工事(1624年〜1626年)】
58家の諸大名により本丸と天守台を築造する工事がおこなわれたが、大工事となったという。
それは、豊臣大坂城の本丸を盛土によって完全に埋没させた後に、新たに石垣や堀を造営したからである。
石垣や堀の普請は1624年(寛永元年)中に完了したが、天守をはじめ本丸の建物の完成は、1626年(寛永3年)までかかっている。
【第3期工事(1628年〜1630年)】
57家の諸大名により二の丸南面の整備がおこなわれ、広大な規模の南外堀と、高さ30mにも及ぶ高石垣が完成した。
これにより、1620年(元和6年)から始まった徳川大坂城の築城は、3期にわたる「天下普請」により10年かけて1630年(寛永7年)に完了したのである。
徳川大坂城の縄張り(構造)
前述したように、徳川大坂城は豊臣大坂城の石垣や建造物のすべてを地下に埋め戻して盛土をしたため、豊臣大坂城のものを一切再利用することはなく新たに造られた。
その位置は豊臣大坂城と同様、上町台地の北端に位置し、各曲輪(くるわ)の標高は、本丸で約31m、その北側の山里丸で約19m、二の丸で約17m、三の丸(北外曲輪)では約5mを測り、北に向かって急激に下がる地形を活かした縄張り(構造)となっている。
二の丸は本丸と山里丸を取り巻き、徳川大坂城の特徴の一つと考えられている仕切り石垣で区切られていた。
二の丸の北側に三の丸(北外曲輪)が配され、三の丸(北外曲輪)はさらに北仕切(きたしきり)曲輪と御蔵(おくら)曲輪に分けられている。
城の東・西・南側には、外堀に面して空地があり、御蔵曲輪の南には東外堀際の空地を挟んで玉造城番(たまづくりじょうばん)の与力屋敷や下屋敷などがあった。
石垣は、総延長が約12Kmで、使用された石材の総数は100万個ともいわれ、特に内堀東側では、高さ約30mの高石垣が連続している。
大手口枡形(ますがた)、京橋口枡形、桜門枡形などでは巨石が使用され、城内には14畳敷以上の巨石が多く残存する。
その中でも、本丸桜門枡形の「蛸石(たこいし)」は城内最大の36畳敷の大きさを誇り、重量は約108トン、京橋口枡形の「肥後石」(約32.8畳敷)は城内第2位の規模で約120トンと推定されている。
「蛸石」「肥後石」のいずれも岡山藩主・池田忠雄(ただお)が他の巨石とともに、備讃(びさん)諸島から運んだと伝わる。
また、石垣表面に刻印が認められる石材が、これまでに約2,000種類、5~6万個も確認されている。
さらに、外堀と内堀の石垣にいくつもの折れを設け、その角には重層の櫓を配して堅固な防備を完成させている。
次に、徳川大坂城の建築物については、本丸に5重の天守をはじめ、三重櫓11基、二重櫓2基が建てられ、これらの櫓は多聞櫓でつながれていた。
三重櫓の高さは、いずれも18mを超え、現存する高知城(高知県高知市)とほぼ同じで、本丸には11基の高知城天守が建ち並んでいたことになる。
二の丸には伏見三重櫓と二重櫓13基が配され、櫓は土塀で結ばれていた。
城の出入口はいずれも枡形門で、内側の一の門に櫓門、手前の二の門には高麗門が配され、それらの門は多聞櫓でつながっていた。
二の丸には、南側に大手口・玉造口、北側に京橋口・青屋口の4カ所の出入口があり、本丸は南側の桜門と北側の山里門の2カ所であった。
徳川大坂城の天守は1626年(寛永3年)に完成したが、その位置は豊臣大坂城のときの本丸北東隅から北西寄りになり、天守の姿も漆黒(しっくい)の望楼(ぼうろう)型から白亜の層塔(そうとう)型に変わった。
天守の高さは石垣を含めて約58mで、豊臣大坂城の天守を20mほども上回り、1階の平面も東西に4間(約8m)、南北に7間(約14m)も拡大した巨大な規模のものとなった。
天守の外観は江戸城(東京都千代田区)・名古屋城(愛知県名古屋市中区)・二条城(京都市中京区)など、江戸幕府が「天下普請」により築いた天守と同系統の特徴を有する。
平側(長辺側)の二重目と妻側(短辺側)の三重目に比翼千鳥破風(ひよくちどりはふ)が、平側三重目と妻側4重目には千鳥破風が、また、平側四重目と妻側二重目には唐破風造りの出窓がそれぞれ付けられている。
壁は白漆喰の総塗籠で、各階の窓の上下に長押形が設けられ、屋根は、最上階のみが銅瓦葺きの他は本瓦葺きであり、鯱(しゃち)及び平側の四重目の唐破風には、金の装飾が施されていた。
徳川大坂城の特徴
徳川大坂城は、豊臣大坂城を完全に地中に埋め、新たに諸大名に工事を分担させて築いた「天下普請」による築城であった。
築城総奉行は築城名人として名高い藤堂高虎が務めたことから、徳川大坂城には藤堂高虎の築城術が活かされている。
それは、方形を基本とした縄張り、広大な水堀、高石垣、枡形を有する城門、直線的な多聞櫓、層塔型天守などである。
徳川大坂城石垣の高さは豊臣大坂城の倍近くになり、城内の至る所に巨石が使用され、二重に廻る内堀・外堀も幅広で深いものとなった。
天守も豊臣期の漆喰の望楼型から白亜の望楼型に変わり、その高さは石垣を含めて豊臣大坂城の天守を20mほども上回り、外観は江戸城・名古屋城・二条城などと同じ特徴を有している。
徳川大坂城は、全体の規模は豊臣大坂城とほとんど変わらず、本丸・二の丸などの曲輪の位置も、ほぼ同じ場所で重なっている。
しかし、最新の石垣築城技術を最大限に活用しながら築城された徳川大坂城は、豊臣大坂城を遥かに凌駕する巨大な城となり、日本の支配者が豊臣家から徳川家に変わったことを広く示すことになった。
こうした徳川政権(江戸幕府)の威信を示した大坂城は、1665年(寛文5年)正月に天守が落雷により焼失し、以後、建てられることはなく、天守台を整備して周囲を板塀で囲んだ。
一方、1626年(寛永3年)に完成した本丸御殿は、他の城では火災などにより焼失する例が多い中、江戸時代を通じて存続したのも、徳川大坂城の特徴の一つである。
しかし、本丸御殿は明治維新の際、大火により焼失し、現在まで本丸御殿は再建されていない。
<主な参考文献>
加藤 埋文 2021年『家康と家臣団の城』KADOKAWA
齋藤 慎一 2015年『徳川の城~天守と御殿~』江戸東京博物館
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖、他 1981年『日本城郭体系 第12巻 大坂・兵庫』新人物往来社
平井 聖・小室栄一 2001年『図録 日本の名城』河出書房新社
「第4章 特別史跡大坂城跡の現状と課題」
(寄稿)勝武@相模
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