隆清院(隆性院、実名不詳・生没年不詳)は豊臣秀次の娘(次女?)である。
NHK大河ドラマ「真田丸」においては「たか」と言う姫の名で描かれるようだ。
演じる女優さんは岸井ゆきさん。
豊臣秀次の娘の母は不明であるが、元々豊臣秀次(羽柴秀次)は側室が多かったので、余計にわからない。
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1595年の豊臣秀次事件で一族の大半は粛清されたが、その時、生き延びた娘の1人が隆清院(りゅうせいいん)であった。
石田三成が徳川家康に敗れた関ヶ原の戦いのあと、隆清院は九度山に蟄居した真田幸村の側室になり、1604年に、なほ(御田姫)を産んだとされる。
更に身ごもった隆清院は、真田幸村の大坂城の入城には同行せず、娘・なほを伴って、祖母・瑞龍院(豊臣秀吉の姉・日秀尼)を頼ったと考えられる。
真田幸村が討死した2ヶ月後である、1615年7月14日に、真田幸村の三男を京都にて産んだ。
瑞龍院(日秀尼)は、元は農民であった三好吉房の妻であったためか、外祖父・豊臣秀次の旧姓である三好姓を称したのか、真田幸村の三男は三好幸信(三好左次郎)と名乗った。
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この3人に対しては、真田信之が徳川秀忠に助命嘆願をしたともされる。
また、なほ(御田姫)は容姿端麗で学問や薙刀にも優れており、江戸城の大奥に女中として務めたともされる。
佐竹義宣の上洛に際して、給仕係として身の回りの世話をしたところを、妻と離別していた岩城宣隆が見そめたとも?
こうして、16歳前後の頃か?、なほ(御田姫、顕性院)が、出羽亀田藩主・岩城宣隆(2万石)の側室に上がり、御田の方と呼ばれている。
そして、三好幸信(三好左次郎)も岩城家に引き取られ、元服すると三好幸信(みよし-ゆきのぶ)と称して380石を与えられた。
なほ(御田姫)は2男1女を儲けたが、子の訓育には厳しかったようで、書や礼儀作法、武芸に至るまで自らの手で教えたとも言う。
1635年に江戸藩邸で病死。享年32歳。
法号は顕性院。葬儀は江戸の宗延寺で行われ、墓は秋田県由利本荘市岩城町の妙慶寺にある。
三好幸信(三好左馬之助幸信)は1667年に死去。享年53。
墓は姉・なほと同じ妙慶寺にある。
なお、真田幸村は、実は生きていて、御田の方を頼って秋田に逃れ、生涯を閉じたとする伝承もあります。
(一部の写真出典:東信ジャーナル)
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