豊臣大坂城三の丸の石垣
豊臣秀吉が築いた大坂城(以下、「豊臣大坂城」という)は、1583年(天正11年)9月から1599年(慶長4年)にかけて、4期に分けられ本丸・二の丸・惣構え・三の丸の順に築城工事がおこなわれた。
豊臣大坂城は大坂夏の陣(1615)年で焼失、埋め立てられ、その上に江戸幕府により徳川大坂城が築かれた。
豊臣大坂城の本丸・二の丸の範囲は、徳川大坂城の範囲とほぼ同じであるが、三の丸の範囲については諸説があり、解明されていない。
その三の丸の遺構と考えられる石垣が、京橋口の外側に築造された馬出曲輪と推定されている場所(現在、「大阪城公園」の西外堀の北)に建つ追手門学院小学校の北東端と、大阪府立男女共同参画・青少年センター(以下、「ドーンセンター」という)敷地北端に復元されている。
追手門学院小学校の石垣は、1984年(昭和59年)の校舎建て替えに伴う発掘調査において、地下約5mの地点で、北面に向けた東西方向に発見された約48mの石垣の一部である。
石垣は30cmから90cm程度の自然石(花崗岩・安山岩)の野面(のづら)積みであり、3段分、高さにして約1.3mが残されていた。
ドーンセンターの石垣は、1989・90年(平成元・2年)のドーンセンター建設に伴う発掘調査において、地下約5m、現在の復元位置から約20m南側で発見された石垣を移築・復元したものである。
石垣は花崗岩を中心とした野面積みで、現状で高さ約2.7m、長さは東西方向に約21mであったが、追手門学院小学校の石垣と合わせると、150m以上であったと推定されている。
この発掘調査では、石垣構築直前の整地層から「慶(長)三年七月七日 傳右衛門(花押)」と記された木札が出土している。
2カ所で発見された石垣は1598年(慶長3年)以降に構築されたこと、少なくとも2度の造り替えがおこなわれたこと、大坂夏の陣以前に破壊されていることなどが判明している。
なお、追手門学院小学校の石垣の一部は、一般の立ち入りができないボイラー室に積み直しされていた。
その石垣は2019年(平成31年)3月に追手門学院小学校に東館(メディアラボ)が竣工したとき、石垣遺構を展示する「おうてもん石垣ギャラリー」が設けられ、地上の道路上からガラス越しであるが見学できるようになった。
豊臣大坂城三の丸をめぐる諸説
豊臣大坂城は1583年(天正11年)9月から1599年(慶長4年)にかけて第4期にわたり、本丸・二の丸・惣構え・三の丸の順に築かれた。
この築城工事の詳細については、以下の記事を参照いただきたい。
・【豊臣秀吉と城】豊臣秀吉の大坂城「豊臣大坂城」の築城~築城工事の特徴を探究する~
三の丸の築造工事は、豊臣秀吉が発令した動員に関する文書などから1598年(慶長3年)6月から始まり、1599年(慶長4年)まで断続的におこなわれたことが分かる。
ただし、史料には「大坂普請」や「大坂御普請」とあるが、「三之丸普請」など三の丸の築造工事であることを示す文言はみられない。
三の丸が史料上に初めて出てくるのは『義演准后(ぎえんじゅんごう)日記』1611年(慶長16年)9月15日条の記事である。
それは、豊臣秀頼が毎年、醍醐三宝院(京都市伏見区)から大坂城に登城する義演准后のために三の丸に宿坊を造営したというものであるが、三の丸の範囲についての記載はみられない。
そのため、数少ない絵図類の分析や現地観察などをもとに、三の丸を広大な範囲とする「大三の丸」説と、二の丸城門外の馬出曲輪とする「小三の丸」説といった2つの説が提唱されている。
「大三の丸」説は、1970年(昭和45年)に岡本良一氏が、現地の痕跡などをもとに、西を谷町筋辺りに、南を現在の外堀と長堀通りの間、東を玉造筋辺りに想定したことに始まる。
その後、1980年(昭和55年)7月に仙台市で発見された『偃台武鑑(せんだいぶかん)』所収「大坂冬の陣配陣図」(以下、『偃台武鑑』図という。)をもとに、松尾信裕氏が輪郭の復元を試みて、南北約1.5km、東西約1.3kmという広大な範囲を想定した復元図(以下、「松尾氏図」という)を作成した。
一方の「小三の丸」説は、桜井成広氏が戦前までの惣構が三の丸であるとの説を批判し、『金城聞見録(きんじょうぶんけんろく)』所収の「大坂城慶長年間之図」(以下、『金城聞見録』図という)に描かれている二の丸城門外の馬出曲輪を三の丸とするものである。
2つの説のうち、『偃台武鑑』図の方が、『金城聞見録』図より信憑性が高く、現在の地形からも妥当であるとして「大三の丸」説が優位となった。
大阪城天守閣の展示パネルも「松尾氏図」に基づいて作成されるなど、多くの賛同を得ている。
ところが、近年の発掘調査の成果により、豊臣大坂城三の丸の位置や範囲などを再検討せざるを得ない状況となった。
大手口前で発見された巨大な堀
2003年(平成15年)、二の丸大手口(生玉口)前の大阪府警察本部庁舎の建て替えに伴う発掘調査で、「L」字形に曲がる豊臣期の大規模な堀が発見された。
堀の長さは南北約110m、東西約50mであるが、1990・91年度(平成2・3年度)に北側の調査で発見された堀と合わせると、南北約250mの大手口を逆コの字形に取り囲んだ堀であることが想定された。
堀の大きさは、上端の幅が約25m、底幅が約13m、深さは約6mであり、南西の屈曲部は、堀の上端幅が5mほど狭くなっており、堀の内側の郭(くるわ)内に隅櫓(すみやぐら)が建っていた可能性が高いという。
石垣がない素掘りの堀の傾斜は40度以上で、その斜面は凸凹のない平坦で滑らかな面である。
堀の底は意図的に凸凹に掘られた「堀障子」の構造で、特に堀の南面で良好に造られている。
堀障子は、堀底を畦状にすることで、堀底に侵入した敵の動きを封じ込めることができ、主に関東の後北条氏の勢力範囲内の城で用いられている。
土層断面の観察から、堀が一気に埋め立てられたことが確認でき、埋め立ての際に敷設されたと推定される道路状遺構が5ヶ所で発見された。
道路状遺構は、板塀など城の建物を解体して得た建築部材や木樋(もくひ)などを転用して敷き並べており、中には、瓦の破片や石の上に土嚢(どのう)を数段積み上げ、その上に板を敷いたものもあった。
遺物は堀の南西隅の埋土の中から「慶長拾三年」と記された子孫繁栄を祈祷した際の御札(以下、「慶長拾三年御札」)という)が出土している。
「慶長拾三年」は1608年であり、ほかに出土した陶磁器類の年代は1615年(慶長20年)より以前のものと考えられている。
堀からは、竹で作られた方形の籠(行李)の中に「六道銭(ろくどうせん)」5枚を添えた年齢・性別不詳の人骨や、六道銭をのせた漆器碗(しっきわん)を抱き、手には数珠(じゅず)を巻き、筵(むしろ)にくるまれた老女の人骨など多くの人骨が出土している。
この堀の年代観は、今回の発掘調査で出土した「慶長拾三年」御札と陶磁器類、そして2002年(平成14年)の大阪府警本部敷地の発掘調査で出土した「申(さる)三月廿五日」と記載の木簡(以下、「申年木簡」という)から考えることができる。
申年木簡は分厚い盛土の中から発見され、長さ9.7cm、幅2.5cm、厚さ0.4cmを測るヒノキ材の穿孔のある短冊形のものである。
表面の上段に2行、下段に1行、裏面に墨書があるが、確認できるのは表面上段の右側の「申三月廿五日」と下段の「刑マ(部)右衛門」という人物名である。
上段右側の「申」という干支に相当する年は、1584年(天正12年)・1596年(慶長元年)・1608年(慶長13年)である。
3つの候補の中で、豊臣大坂城の築城工事の経過や出土遺物の年代観、土層の層位関係などから、申年木簡の申年は1596年(慶長元年)であり、申年木簡は堀の掘削時に埋没した可能性が高いという。
こうした発掘調査の成果や絵図類との照合などから、大手口前で発見された堀について、以下のことが考察されている。
〇 発見された堀は、豊臣大坂城二の丸の大手口(生玉口)の外側に設けられた馬出曲輪の西南隅の堀と考えられること。
〇 堀の掘削時期は1598年(慶長3年)~1599年(慶長4年)の三の丸築造工事の期間であるが、堀の斜面の状況から、大坂冬の陣に備えて削りなおした可能性もあること。
〇 1614年(慶長19年)末に大坂冬の陣の和睦を受けて、城の建物を解体して埋め戻されたこと。
〇 仮設の道路が設けられ、埋土中から老女の人骨も出土していることから、埋め戻し作業は短期間に急いでおこなわれたこと。
以上であるが、この発掘調査の最大の成果は、コの字形の大規模な堀の発見により、三の丸の範囲の再検討が必要となったことである。
豊臣大坂城三の丸の実態
前述したように、豊臣大坂城三の丸の範囲については、二の丸の外側の広大な範囲とする「大三の丸」説と、二の丸城外の馬出曲輪とする「小三の丸」説が提唱されてきた。
1980年(昭和55年)7月に発見された『偃台武鑑』図の信憑性が高く評価あれたことなどから、「大三の丸」説が優位となり、三の丸の実態解明は「大三の丸」説を踏まえて進展したといえる。
それが、2003年(平成15年)、二の丸大手口前で大規模な堀が発見されたことで、「大三の丸」説に基づく三の丸範囲の再検討が必要となった。
発見された堀は、大手口外の曲輪を逆コの字形に囲んでおり、その場所は『偃台武鑑』図には「三の丸」と表記されている。
ただし、堀が囲んでいる曲輪の規模は、『偃台武鑑』図に基づく「松尾氏図」と比べて小さく、「大三の丸」説が想定していた規模の20分の1以下であることが指摘されている。
そこで、発見された堀は大手口の外側に設けられた馬出曲輪の西南隅の堀であるとして、馬出曲輪を三の丸とする「小三の丸」説に基づく再検討が進んでいる。
例えば、黒田慶一氏は、豊臣秀吉が築いた城の虎口は、二の丸の門に枡形が存在せず、広い馬出曲輪を門外に設けることを特徴としていることをあげた。
次に、馬出曲輪を石塁でつないで囲む城の縄張りは、小倉城(福岡県)・高岡城(富山県高岡市)・名古屋城(愛知県名古屋市)など、慶長期(1596年~1615年)の城に数多くみられるとした。
そして、大坂冬の陣(1614年)の講和条件は、外曲輪(惣構)を徳川方、二の丸・三の丸を豊臣方が取り壊すことであったことをふまえ、二の丸・三の丸は近接、あるいは複合したものとした。
これらのことから、1586年(天正14年)からの二の丸築造工事で築造された馬出曲輪が、1598年(慶長3年)からの第4期工事で拡張されたとし、京橋口・大手口(生玉口)・玉造口のそれぞれの馬出曲輪を石塁でつないで囲んだ範囲を「三の丸と呼ぶことは十分可能である」(黒田 2006年)と結論づけている。
なお、大坂城南西部の大阪国際平和センターが建つ一帯や旧日生球場内などでも、発掘調査がおこなわれており、玉造口の馬出曲輪の堀・石垣が発見されている。
このことも踏まえ、、筆者も玉造口・大手口(生玉口)・京橋口のそれぞれの馬出曲輪を三の丸と想定する「小三の丸」説の方を支持したい。
大坂城のような輪郭式の城郭は、本丸・二の丸などの内郭を築造した後に、三の丸・惣構えなどの外郭を築造するのが一般的であり、豊臣大坂城は本丸・二の丸・惣構え・三の丸の順に築造工事がおこなわれており、二の丸と惣構えの内側に広範囲な三の丸を築造するのは考え難いからである。
また、三の丸が築造されたとされる第4期工事(1598年9月~1559年)は、総構え全体の地盤の嵩(かさ)上げ整備が中心であったとの指摘も踏まえると、京橋口・大手口(生玉口)・玉造口の馬出曲輪(=三の丸)を拡張する小規模な工事で、より防御性を高めたと考える方が納得できるのである。
ただし、豊臣大坂城三の丸の実態解明に向けては、第4期工事は1600年(慶長5年)7月頃までとする説やや、史料的に三の丸の築造を指していないなどの見解など、多くの課題が残されている。
今後も発掘調査や探査調査などにより地中の堀や石垣、遺構などが明らかにし、その成果を文献史料や絵図類などと照合するなど、城郭研究・文献史学・考古学などによる学際的な研究をより深めていくことが求められる。
<主な参考文献>
笠谷 和比古・黒田 慶一 2015年『豊臣大坂城 秀吉の築城・秀頼の平和・家康の攻略』新潮社
黒田 慶一 2006年「豊臣氏大坂城と三の丸論争」(鈴木 重治・西川 寿勝 編著 『戦国城郭の考古学』ミネルヴァ書房 所収)
中村 博司 2008年『天下統一の城・大坂城』新泉社
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖、他 1981年『日本城郭体系 第12巻 大坂・兵庫』新人物往来社
平井 聖・小室栄一 2001年『図録 日本の名城』河出書房新社
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(寄稿)勝武@相模
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