築城までの経緯
戦国時代末期の1580年(天正8年)、織田信長は10年にわたり戦った石山本願寺と講和をなし、石山本願寺の本拠・大坂の地を手に入れた。
大坂は上町台地の北の先端にあたる要害の地で、北を流れる淀川を通じて瀬戸内海から京都につながる交通の要衝でもあった。
織田信長は全国統一やその後の大陸遠征をための本拠地とするため、石山本願寺の跡地に壮大な城郭を築城することを期していたという。
しかし、1580年(天正8年)6月2日、本能寺(京都市中京区)で重臣の明智光秀(あけち みつひで)に襲われ、織田信長は全国統一半ばで亡くなった(本能寺の変)。
織田信長の没後、その後継者として大坂城築城を実現したのが、豊臣秀吉(この時期は「羽柴」姓であったが「豊臣」に統一)であった。
豊臣秀吉は本能寺の変から10日後に明智光秀を山崎(京都市山崎町)で討ち破り(山崎の戦い)、翌1581年(天正9年)5月には最大のライバルであった柴田勝家(しばた かついえ)も滅ぼした。
豊臣秀吉は、織田信長の後継者の地位を確立すると、大坂を領していた池田恒興(いけだ つねおき)を大垣城(岐阜県大垣市)に移して自分の領地とした。
1583年(天正11年)6月、豊臣秀吉は京の大徳寺で織田信長の一周忌法要を済ますと、6月4日に大坂に入った。
大坂にあった石山本願寺は1580年(天正8年)の石山合戦の講和直後に焼失し、その後は丹羽長秀(にわ ながひで)と津田信澄(つだ のぶずみ)がこの地を守備していた。
『細川忠興軍功記』1582年(天正10年)の記事に「大坂御城本丸は、丹羽五郎左衛門(丹羽長秀)殿御預かり、千貫矢倉は、織田七兵衛(津田信澄)に、御預け被成被召置き候由之事」とあり、石山本願寺は本丸と「千貫矢倉」のあった部分の二つの郭からなる城郭構造であったことがわかる。
この石山本願寺の跡地に、豊臣秀吉は織田信長の安土城(滋賀県近江八幡市)をしのぐ大規模な大坂城(以下、「豊臣大坂城」という)を築城したのである。
築城工事の経過
豊臣大坂城築城の普請(ふしん)総奉行は浅野長政(あさの ながまさ)が担当し、縄張りは黒田孝高(くろだ よしたか・官兵衛)がおこなった。
豊臣秀吉が黒田孝高に宛てた1583年(天正11年)8月28日付けの「掟書(おきてがき)」には、
築城工事の方針が5条にわたり記述されており、その内容は以下のとおりである。
第1条 砕石場は公開とし、1人独占は認めない。
第2条 石運び要員の宿舎は石場に野陣を張ること、大坂に宿舎のある者は別途対応のこと。
第3条 石運びは大石を引く者に道を譲ること。
第4条 喧嘩口論は厳禁のこと。
第5条 石運びの人夫が百姓に理不尽なことをすれば、犯罪行為として断固処罰せよ。もし見逃した
りすれば、その主人まで責任を問う。
この「掟書」は豊臣大坂城築城に関するもっとも古いもので、かなり細かなことまで指示されている。
豊臣大坂城の築城工事は1583年(天正11年)9月から豊臣秀吉没後の1598(慶長3)年まで、以下の4期に分けておこなわれた。
〔第1期〕1583年(天正11年)9月~1585年(天正13年)4月下旬
〔第2期〕1586年(天正14年)正月頃~1588年(天正16年)年6月
〔第3期〕1594(文禄3)年正月~1596(文禄5)年10月後半
〔第4期〕1598年(慶長3年)6月~1599年(慶長4年)
築城工事の進捗状況や様子は、京の高僧など貴人の日記をはじめ、キリスト教の宣教師が本国に送った報告書などに記されている。
これらの史料を基に、第1期から第4期までの各期間の築城工事の状況を以下に示す。
【第1期工事】
第1期工事は、1583年(天正11年)9月1日から本丸石垣の普請(土木工事)が始まった。
吉田兼見(よしだ かねみ)の日記『兼見卿記』には、1583年(天正11年)年9月1日条に「自今日大坂普請之由申候」とある。
イエズス会宣教師のルイス・フロイスがイエズス会総長にあてた1584年(天正11年)年1月2日付けの報告書には、第1期の築城工事の様子が記されている。
それには「最初は二、三万人を以て工事を始めたが、竣工を急ぐので遠方の諸侯に自ら来るか又己に代って其子をして家臣を引率して建築に従事せしむることを命じた。今は月々工場に従事する者五万に近い。又他の諸国の領主達には、其城の周囲に大なる邸宅を建築することを命じた為め、一人のパードレが同地より通信する所に依れば、諸人皆彼を喜ばせんと欲して少しも彼の命令に背かず、約四十日の間に七千の家が建った」とある。
築城工事の開始当初は2~3万人の人夫が従事したが、その後、諸大名に命じて5万人ほどの人夫が動員されている。
また、豊臣秀吉は諸大名と家臣の邸宅を大坂城周辺に建てることを命じたため、約40日間で7千軒も建てられたことなどが記されている。
他の史料からも、5万人ほどの人夫が動員されたことで、築城工事の開始からわずか2ヶ月後の1583年(天正11年)年11月には天守台が完成し、次いで本丸御殿や山里丸の茶室などの作事(さくじ・建物の建築)も完了している。
築城工事の開始から1年半ほど経た1584年(天正12年)8月8日に豊臣秀吉は山崎城から大坂城へ正式に移るが、本丸の工事自体はその後も続いた。
1585年(天正13年)4月27日には、本願寺からの使者である下間頼康(しもつま らいこう)の一行を豊臣秀吉自らが天守に案内しており(『貝塚御座所日記』)、その頃には本丸の工事は完了したものと考えられる。
【第2期工事】
第2期工事は第1期工事が完了した翌1586年(天正14年)正月頃から始まった。
豊臣秀長(ひでなが)が普請総奉行を務め、毛利輝元らの西国の諸大名が動員されて、二の丸外堀の普請と二の丸建物の作事がおこなわれた。
この工事には7~8万人が動員され、石垣の石材は瀬戸内海の小豆島(しょうどしま)から運ばれるなど第1期工事を超える大規模なものであった。
前述したルイス・フロイスは、1586年(天正14)年5月4日にも大坂城を訪問し、「濠は今大坂城の周囲に構築中であるが、絶えず六万人が之に従事し、……濠は幅四十畳深さ十七畳である」と築城工事の様子を報告している。
また、ルイス・フロイスは著書『日本史』においても「彼(秀吉)が大坂城の周囲に築かせた濠の工場は、副管区長(ガスパール・コエリョ)師が五畿内を訪れた時より二か月以上も前から行なわれていたが……」と記している。
ガスパール・コエリョの一行が畿内を訪れた2か月以上前とは、1586年(天正14年)正月のことであり、豊臣秀吉が1月23日付で一柳末安に鋤・鍬・持籠などの調達を命じ(『史料綜覧』)、2月23日付で加藤左馬助(かとう さまのすけ)宛に「大坂築城石運掟書」(『大坂城天守閣所蔵文書』)を出した時期と重なる。
この築城工事で構築された堀の幅は20間(約40m)、深さは15~16間(約30~32m)で、石垣の高さは14間(約28m)余りと本丸石垣の9間(約18m)を超えるものである。
この第2期工事について、興福寺多聞(たもん)院(奈良県奈良市)の院主・英俊(えいしゅん)は『多聞院日記』の1588年(天正16年)6月晦日条に「大坂普請モヤウヤク周備」と記している。
「周備」はすべて備わっていることを表す言葉であり、英俊は1588年(天正16年)年6月時点で築城工事すべてが完了した、と認識していたことが想像できる。
第1期・第2期工事により本丸と二の丸が完成したことで、縄張り(構造)的には最低限の城郭が完成したと捉えることができる。
【第3期工事】
第3期工事は第2期工事完了の6年後、1594(文禄3)年正月から始まった。
『駒井日記』の1594(文禄3)年正月20日条に「大坂御普請割之様子、伏見之丸之石垣 同惣構堀 大坂惣構堀 此三ケ所江三ニ分而被仰付由」と記されている。
この記述から、第3期工事では大坂城惣構えの構築がおこなわれたこと、同じ時期に伏見城の三の丸石垣と惣構堀の工事も進められていたこと、そして諸大名を三ケ所に動員したことがわかる。
この第3期工事に関する史料はきわめて少なく、工事の詳細や完了時期については不明である。
1596(文禄5)年10月20日付けの豊臣秀吉が「大坂堺口御門ひかへ柱之御用」を命じた朱印状を第3期工事に関連する文書であるとの指摘もあり、第3期工事は1596(文禄5)年10月後半までおこなわれていたものと考えられる。
第3期工事が始まる6年前の1590年(天正18年)、豊臣秀吉は小田原攻めをおこない、関東の覇者・後北条氏を攻め滅ぼした。
後北条氏の本拠・小田原城(神奈川県小田原市)は城下を土塁・堀で囲む広大な惣構えを設けており、その惣構えを豊臣秀吉は自分の城にも取り入れた。
翌年の1591年(天正19年)に豊臣秀吉は京都の市街地を囲い込む「御土居(おどい)」を築き、4年後の1594(文禄3)年には、大坂城の周囲に惣構え堀を掘削する工事を始めたのである。
豊臣大坂城の惣構えの範囲については、『大坂陣山口休庵咄』に「惣がまへ、西ハ高麗橋筋横堀の内、南ハ八町目黒門の内」とある。
東は旧猫間川(現・JR環状線)、西は東横堀川、南は空堀跡(空堀商店街南側とその延長線)、北は大川(旧淀川)と第二寝屋川(旧大和川)を範囲として囲んだ。
これにより、東西・南北ともに約2kmに及ぶ空堀が新たに掘られ、豊臣大坂城の面積は4倍以上に拡大し約420万㎡となった。
【第4期工事】
第4期工事は「大坂町中(ちょうちゅう)屋敷替え」と呼ばれる三の丸の普請工事で、豊臣秀吉が没する3ヶ月ほど前の1598年(慶長3年)6月頃から始まった。
ルイス・フロイスの報告書には、1598年(慶長3年)の春、病床に伏していた豊臣秀吉が突然、大坂城の拡張工事を命じたことを伝えている。
1598(慶長3)年5月17日付と推定される「宮部兵部少輔宛秀吉朱印状」(『大坂城天守閣所蔵文書』)によると、同年6月10日からの「大坂城普請」へ動員する命令が出されている。
この第4期工事の内容は、宣教師のフランシスコ・パシオの『日本年報』に以下のことが記されている。
〇豊臣秀吉は没後の戦乱を防ぐために、大坂城に長さ3レグア(12〜16.5km)の新たな城壁を巡らして難攻不落の城とした。
〇大坂城内に主な大名たちが妻子とともに住めるよう屋敷を造営させた。
〇伏見から大坂へ屋敷を移すことになった諸大名に費用として金・銀・米を補った。
〇大名屋敷予定地には7万軒以上の商人や職人の家があったが、住民自らが2、3日中に取り壊した。
〇立ち退いた住民に対して長方形に区画された代替地(「船場(せんば)」のこと)があたえられ、約1万7千軒の家屋は軒(のき)の高さを揃え、檜を用いるよう命じられた。
〇豊臣秀吉没後2週間ほどが経つが、普請工事は進んでおり、諸大名に与えられた用地は、数か所で丘が平地に変えられている。
この第4期工事により総構え内の地盤を嵩上げ・整地して武家屋敷で固め、商工業者の町家は船場など城外に移転した。
その目的は城の防御をより強固にすることと、城下の商工業を充実させることであったと考えられる。
そして、この第4期工事は、1598年(慶長3年)9月に豊臣秀吉が没した後も1599年(慶長4年)まで続いた。
以上、豊臣大坂城は、1583年(天正11年)9月1日から1599年(慶長4年)まで継続して築城工事がおこなわれ、安土城を超える大規模な城となったのである。
築城工事の特徴
豊臣大坂城の築城工事の特徴の一つは、1583年(天正11年)9月1日から豊臣秀吉没後の1599(慶長4)年まで、4期に分けておこなわれたことである。
第1期工事が1583年(天正11年)9月から1585年(天正13年)4月下旬、第2期工事が1586年(天正14年)正月頃から1588年(天正16年)年6月、第3期工事が1594(文禄3)年正月から1596(文禄5)年10月後半、そして第4期工事が1598年(慶長3年)6月から1599年(慶長4年)まで、と4期に分けておこなわれている。
それぞれの工期の間は、第1期と第2期との間が1年弱、第2期と第3期との間は約6年、第3期と第4期との間は約2年である。
第2期工事の竣工から第3期工事の着手まで、なぜ、6年もの間隔が空いたのであろうか。
この点について、1590年(天正18年)の小田原攻めの際、豊臣秀吉は、後北条氏の本拠・小田原城が惣構えにより防御が堅固であったことを見分し、自分の城にも導入したとの指摘がなされている。
この指摘については、小田原攻め(1590年)の戦後すぐではなく、4年も経てから惣構えの構築工事(第3期工事)に着手したことに疑問が出されている。
この疑問点の解決に向けて、小田原攻め(1590年)後から第3期工事開始(1594年)前までの豊臣秀吉の動向を整理すると、以下のようになる。
1590年(天正18年)
7月、北条氏直が降伏(小田原城開城)。奥州平定に出発。
1591年(天正19年)
1月、豊臣秀長が没する。2月、千利休を自害させる。5月、京都に「御土居(おどい)」を築造。9月、朝鮮出兵を命じる。10月、肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の築城開始。12月、豊臣秀次に関白職を譲る。
1592年(文禄元年)
3月、肥前名護屋に出発。4月、小西行長らが朝鮮に出兵(文禄の役)。
1593年(文禄2年)
8月、豊臣秀頼が誕生。
豊臣秀吉は小田原攻めや奥州平定により全国統一を達成すると、「御土居」の築造や朝鮮出兵の準備など、日本の支配者(「天下人」)として多くのことに取り組んでいる。
小田原攻め後も、豊臣秀吉は奥州平定のために会津黒川城に滞在し、朝鮮出兵の本拠である肥前名護屋に在城するなど、大坂城に居る時間は短かったであろう。
そこで、大坂城に惣構えを構築することは念頭にあったであろうが、実行する時間や余裕がなかったのであろう。
それが、豊臣秀頼の誕生(1593年8月)をきっかけに、いずれは豊臣秀頼に譲ることになる大坂城の防御を強化するために、1594(文禄3)年正月から惣構えの構築工事(第3期工事)に着手したものと考えられる。
築城工事の特徴の二つ目は、本丸(第1期)・二の丸(第2期)・惣構え(第3期)・三の丸(第4期)の順に工事がおこなわれたことである。
豊臣大坂城のように、本丸を中心として外側に二の丸・三の丸が取り囲む輪郭式の城郭では、本丸・二の丸・三の丸の順に工事がおこなわれて城域が拡張され、最後に惣構えが構築されるのが通常である。
しかし、豊臣大坂城では惣構えの構築の後に、三の丸の工事がおこなわれているのである。
この三の丸については、その位置や範囲が明確ではなく、様々な議論がなされている。
三の丸が最後に造営された理由については、文献史料や絵画資料、発掘調査に基づく考古資料などを基に、三の丸の位置や範囲を明確にしながら、総合的に検討していくことが必要であろう。
<主な参考文献>
笠谷 和比古・黒田 慶一 2015年『豊臣大坂城 秀吉の築城・秀頼の平和・家康の攻略』新潮社
中村 博司 2000年「秀吉の大坂城拡張工事についてー文禄3年の惣構普請をめぐって」(渡辺武館長退職記念論集刊行会編『大坂城と城下町』思文閣出版 所収)
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖、他 1981年『日本城郭体系 第12巻 大坂・兵庫』新人物往来社
平井 聖・小室栄一 2001年『図録 日本の名城』河出書房新社
(寄稿)勝武@相模
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