鹿児島に落ち延びた真田幸村と豊臣秀頼伝説を追ってイザ現地調査


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大阪城に入った真田幸村(真田信繁)と真田大助は、豊臣秀頼を守り、1615年、大坂夏の陣にて討死したというのが通常の説です。
しかし、敵前を突破して、九州の薩摩まで落ち延びたという伝承もあります。
大阪から船に乗って逃れたとされています。

まぁ、この手の伝説は、源頼朝と弁慶など、有名どころの武将には必ずあるような言い伝えですが、その伝説を追って鹿児島空港に降り立ち取材して参りました。
よければ、ご覧頂けますと幸いです。

さて、鹿児島空港からトヨタレンタリースのレンタカーにて、知覧の方角を一気に目指してみました。
まず始めに、鹿児島県南九州市頴娃町牧之内雪丸にある「伝・真田幸村の墓」を訪問してみます。

伝・真田幸村の墓

知覧や開聞岳・指宿の辺りは2回しか訪問したことがありませんし、もちろん、こんなところに真田幸村の墓とされるものがあることも知りませんでした。

ここの集落は、その名も「雪丸」(ゆきまる)です。
知覧茶の栽培が盛んで、雪も滅多に降らない南国で雪の字ですが、ユキムラと言う文字と、真田丸のマルと言う文字が変異したと言われています。
下記はバス停の写真です。

なお、雪丸バス停に停車する、南九州市コニュニティバス「ひまわりバス」はあることはありますが、頴娃16(上渕・雪丸線)は月曜だけ、頴娃11(種子尾・一氏線)は木曜日だけの運転で、バス利用での訪問は現実的ではありません。
どうしても電車で行く場合には、JR喜入駅からタクシーで山を越えて約30分(片道約4000円)が良いです。

さて、話を戻しますが、地元の伝承によると真田幸村は芦塚左衛門と名を変えました。
真田幸村は地元の人々から芦塚大左衛門様と親しまれ、その子・真田大助(真田幸昌)は芦塚中左衛門と呼ばれたとされます。
そして、孫は芦塚小左衛門として、現地の者は親子3代を区別したようです。

鹿児島の真田幸村の墓は、頴娃(えい)の田原家私有林墓石と言い、田原氏の私有地の中にあります。
しかし、地元自治会の皆様が非常に丁寧に手作りの「行き先案内」をしてくだっております。
下記が雪丸地区から、幸村の墓に入って行くポイントとなります。
地図は縮尺を変えて下さい。

このように行き先を示してくださっており、迷うことなく訪れることができました。
下記の地図ポイント地点が、上記写真の入口となります。

しかし道も狭く、初めての方は、この雪丸地区にたどり着くだけでも分かりにくいと思いますので、駐車場の場所をGoogleマップにして示しておきました。
Googleマップは、他の史跡などもすべて網羅していますので、下記の地図から薩摩半島の南部にある「伝・真田幸村の墓」の場所をご参考願います。

Google特製マップ

下記のように10台ほどの駐車場も整備されているのですが、これって、自治会費、はてまた私費?を投じてわざわざ設置されたのではと推測致します。
各写真はパソコンでクリックすると拡大致します。

羽田空港から鹿児島まで約1000kmと、遠方から訪れる私にも非常にありがたい、行き先表示と駐車場でした。
この場で失礼ですが、深く御礼を申し上げたいと存じます。

ただ、残念ながら、山の中にある関係で、クルマを止めて良いスペースから、山道を600m(10分)ほど登ったところに、伝・真田幸村の墓があります。
すぐ近くではありませんので、徒歩で進入する必要があります。

入口にきちんと「杖」(つえ)までご用意くださっておりますので、ありがたく使用させて頂きました。
ただ、予測していたより坂道もそんなにキツクはなかったので、軽い散策と言えます。

私は常に登山靴を履いていますので、大丈夫ですが、少なくともスニーカーは必須で、ハイヒールは困難です。
事前情報で高い段差もあると言う事でしたが、まぁ、至って普通の山城へ登るよりはラクと言う感じでした。
しかし、以前、近江・小谷城の本丸から大堀切に転げ落ちた経験を踏まえて、着替えをもって行ったのは言うまでもありません。

この坂道は殿どん坂(とんどんざか)と呼ばれているそうで、子供には坂の先に偉い人の墓があるから近づかないようにと伝わっていたと言います。
鹿児島はどこでもそうなのですが、ジメジメしていますので「苔」(コケ)が結構生えていて、滑りやすいので注意が必要です。
なお、夏場は水分補給できる体制と、虫よけ対策もあった方が良いのではと存じます。

ただし、この登山道(遊歩道)にも、砂利をわざわざ撒いてくださっており、少しでも歩きやすいようにとご配慮頂いているのには、地元の方々のお心遣いを感じました。
砂利だって購入すれば、バカにならない価格ですし、これだけ整備するのにも人手が必要です。

東京近郊の城跡も民間の土地だけでなく公共の公園内の城跡(石神井城など)でさえ「立入禁止」となっているところもあります。
私有地をこのように開放してくださっているだけでなく、お金だけでなく手間暇かけて整備されているのには頭が下がる思いです。
途中、苔で滑りそうになりましたが、感謝しながら整備された道を上り詰めますと、山の中腹に伝・真田幸村の墓が見えて参りました。

薩摩に逃れた真田幸村は、谷山にて豊臣秀頼主従と別れて、この雪丸地区に移ったと言われています。
そして、山伏修行をする形で、身を潜めたともされ、幸村山伏伝説や山伏修行で利用した湧水もあるようですが、ここで生涯を終えた真田幸村は、この地に埋葬されました。

鹿児島の真田幸村の墓には、丸い小石がたくさん乗せられています。
これは、真田幸村の世話をした村の若い娘がいたそうで、やがて、幸村の子を身籠ります。
しかし、幸村は隠れ住んでいる身でしたので、その娘とお腹の子に害が及ばないよう、南の太平洋に面した海辺である頴娃大川にその娘を嫁がせたと言います。
その娘が産んだ子は「真江田」と言う姓名を称したと言い、真田幸村が亡くなると娘と子の真江田瓢左衛門がお墓の参りするときには、海から丸い石を拾って、お賽銭代わりに小石を置いたと言われています。

真江田氏は幕末には薩摩藩から帯刀を許されており、大川の真江田家や難波家の墓には「六文銭」が刻まれているとの事です。

なお、鹿児島にある真田幸村の墓としては、もう1箇所あり、鹿児島湾の対岸である大隅半島の旧大根占町に落司(おとし)と言う集落があります。
現在の錦江町城元です。
その落司平墓地と言う公園があり、その一角に真田稲荷神社跡があります。
真田稲荷神社は現在は残っていませんが、跡地に真田幸村の墓と、真田大助の墓とされるものが落司平墓地に現存します。
旧城元遊喜浦の遊喜浦も「ゆきうら」(ゆきのうら)と読みます。

こちらは、豊臣秀頼と真田幸村などの主従20名が、谷山郷や加治木、そして牛根を経てこの落司に住み着いたと伝わります。
その後、豊臣秀頼は谷山郷へと移りましたが、真田幸村と真田大助は落司に残って、真田幸村が没したあとは、真田大助と家臣が根付いたと言います。
また、参道の下には豊臣秀頼に従った家臣の墓とされる「落司七人塚」も、かつてあったとされます。

上記の写真は、雪丸の高台から望む風景ですが、真田幸村もこのような景色を見たのかも?しれません。
なお、兵児岳(標高471m)から「ブーン」とプロペラ機が飛んでいるような音が絶えず聞こえましたが、風力発電の音でした。
地元の皆様の「おもてなし」が、近い将来、報われる日が来ると良いなとつくづく感じつつ、雪丸をあとにしました。

伝・豊臣秀頼の墓

鹿児島の谷山に居した豊臣秀頼の墓とされるものも存在します。
鹿児島市谷山の麓は、今でも武家屋敷風情が残る地区で、鹿児島の市街地からは近郊と言える場所ですが、そちらも訪問させて頂きました。
JR指宿枕崎線の滋眼寺駅から約1km(徒歩15分)のところにあります。

豊臣秀頼は大阪城から逃れたあと、種ヶ島蔵人と称して薩摩に隠れ住んだと伝わります。
なお、寛永年間(1624年~1644年)に、古くなった鎧を修復してもらえため、京都の具足師を豊臣秀頼が訪問したとされ、その甲冑を見た具足師が「太閤の鎧だった」と言ったと言う文献も残っているそうです。

また、豊臣秀吉と言う太閤殿下の子として育った、お坊ちゃま・豊臣秀頼でしたので、愛犬を連れて城下のお店で酒を飲んでも、勘定を支払うと言う事を知らなかったそうです。
そのため、無銭飲食していたことから地元では、ただ食いすることを「谷山犬の食い逃げ」と言うそうです。

さて、谷山の伝・豊臣秀頼の墓ですが、下記の場所から民家の敷地に入った福元氏宅の敷地内(庭先)にあります。

私有地内ですが、訪問を拒んではいないようですので、こちらもありがたくお参りさせて頂きました。
2016年にはNHK大河ドラマ「真田丸」にて豊臣秀頼を演じた中川大志さんも、わざわざお墓参りに来られております。
写真もわかる通り、伝・豊臣秀頼の墓はかなり古い時代の宝塔です。

各地を回って何個も古い墓を見る機会に触れますと、風化した古びた感じから、概ねその建立された年代が分かります。
パッと見で鎌倉時代かな?、でも台風も多い土地だから、南北朝かな?とも感じましたが、あとで調べて見ましたら、地元の調査でも鹿児島にある鎌倉時代の宝塔と姿形が似ているそうです。
そのため、豪族・谷山氏の初代・谷山忠光の供養塔ではないかと言う説もあるとの事です。

ただし、オモシロイ事に、ここには豊臣秀頼の末裔を称している木下さんもおられます。
その木下氏宅の敷地にも豊臣秀頼供養塔として伝承される祠群があるそうで、こちらは原則非公開との事です。

この2つの豊臣秀頼の墓がある谷山地区も、もともとは木之下と呼ばれた集落だったようです。

また、豊臣秀頼本人ではないですが、子である豊臣国松が薩摩に逃れたと言う説があるのも事実です。

豊臣秀頼と真田幸村は大阪の陣で命を落としましたが、豊臣国松は、真田幸村の子・真田幸昌(真田大助)と薩摩藩の船で薩摩の伊集院へ落ちのびたとする伝承です。
その後、大分の日出藩が、木下一族である木下延俊であったため日出藩を頼り、立石藩主・木下延次(木下延由)になったと言う話もあります。
木下延次の位牌の裏には「木下縫殿助 豊臣延由」と「豊臣」という文字も刻まれていると言います。

豊臣国松は生きていたのか?~立石陣屋・木下延由の謎に迫ってみた

更に余談ではありますが、木村重成の墓が鹿児島県には2箇所あったそうです。
木村重成は加治木に落ち延び、有丘伴左衛門と称して、安国寺に墓があったと言います。
もう一カ所は、薩摩半島南端の山川村にて木村重成は没して、その地の妙見寺に墓があったとされ、のち妙見寺は鹿児島城下に移転したため妙顕寺と言う寺があったとされます。

また、大坂の陣で同様に薩摩に落ち延びたとされる武将としては、明石全登の子・明石内記の伝承も存在します。

更に、真田幸村じたいは、肥前・名護屋城の近くに落ち延びた言う伝承もあります。

肥前・名護屋城からちょっと離れた真田昌幸陣跡にある「サナダサエモン様の墓」

以上の話は、現地で調べてみても、あくまでも伝承の域から脱する事はできません。
しかし、このように「生きて逃れた」と言う伝承があると言う事は、真田幸村や豊臣秀頼も、それだけ当時から注目を浴びた武将であったと言う事は間違いなく言えます。

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個人的な憶測では、このような落人伝説がある場所には、実際に逃れてきた武将がいたのだと思います。
しかし、それは豊臣秀頼や真田幸村ら本人ではなく、縁者、もしくは家来などであったような気がします。
ひどい考え方をしますと、名も知られない浪人が、良い待遇を受けようとして、本人を騙って村人をだましたと言う偽者もいたのではと考えます。
テレビも新聞も無い時代でしたら、私が「幸村である」と称して鹿児島を訪れても、身なりがそれなりでしたら、信用されてしまうのではと存じます。
そのような人物が実際にその村で暮らして亡くなったあと、伝承の中で、豊臣秀頼の家臣や肉親だったと言うのが、口頭で伝わるうちに、豊臣秀頼本人だったという話に変化してしまったようにも感じます。
これらはあくまでも個人的な推測にすぎませんが、まぁ、このような落人伝説もあることから、歴史はロマンがあり、色々と面白い側面もあるのかな?と、改めて感じた旅となった次第です。

下記のGoogle特製マップもどうぞご活用頂けますと幸いです。
上記でご紹介致しました史跡から最寄りの駐車場なども掲載させて頂いております。

ご覧頂きまして、誠にありがとうございました。

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