塔原幸貞【海野幸貞】とは
塔原幸貞(とうばら-ゆきさだ、海野幸貞、海野三河守幸貞)は、海野輝幸の4男で、正室は矢沢頼綱の娘であり、真田昌幸とは従兄弟にあたる。真田昌幸の進言により、武田勝頼から塔原家の家督を相続することが認められ、信濃先方衆20騎持ち塔原城主となる。...
塔原幸貞(とうばら-ゆきさだ、海野幸貞、海野三河守幸貞)は、海野輝幸の4男で、正室は矢沢頼綱の娘であり、真田昌幸とは従兄弟にあたる。真田昌幸の進言により、武田勝頼から塔原家の家督を相続することが認められ、信濃先方衆20騎持ち塔原城主となる。...
白倉武兵衛(しろくら-ぶへい)は、1547年生まれの武田家の家臣で、1564年に箕輪城攻めの際、真田幸隆が武田信玄に使いを出した武田家武将として白倉武兵衛の名が見られる。 武田勝頼の自決後、白倉武助(父か?)と共に真田昌幸を頼って、真田家...
真田信之(さなだ-のぶゆき)は、武藤喜兵衛(真田昌幸)の嫡男として1566年に生まれた。幼名は源三郎。母は山手殿。父・武藤喜兵衛は、真田幸隆の3男であったことから、武藤三郎左衛門尉の養子となっており、騎馬15騎、足軽30人を率いる足軽大将と...
河原隆正 河原隆正(河原丹波守隆正)は1509年生まれで、真田幸隆に嫁いだ正室・河原殿の兄。 信濃の豪族で海野家の海野棟綱に仕えていたが、1541年、海野平の戦いで武田信虎・村上義清連合軍に敗れると、海野棟綱に従って関東管領・上杉憲政の元...
真田信尹(さなだのぶただ)は、真田幸隆の4男として1547年?に誕生した。 母は正室・河原隆正の妹・恭雲院。 兄に真田信綱、真田昌輝、真田昌幸がいる。 なお、真田昌幸と歳が同じであることから、母は側室だったとする説や、双子だったと言う説...
真田昌輝(さなだまさてる、真田兵部少輔、真田兵部丞昌輝)は、武田家の重臣・真田幸隆の2男。 母は河原隆正の妹・恭雲院。 1543年6月に岩尾城で生まれたとされるが、ちょうど真田幸隆が武田信玄に仕える事になったか、ならないか様々な説がある...
鎌原幸定(かんばらゆきさだ)は、真田家の祖・真田頼昌の子で、真田幸隆の弟。 海野棟綱の3男とする説もある。官途は大和守。 その後、上野吾妻郡の海野氏の一族である三原城主・鎌原幸政(鎌原修理亮幸政)の養子となった。 武田信玄が信濃に進出す...
真田昌幸や真田幸村が世に出るキッカケを与えてくれた恩人とも言える、武田信玄公の跡を継いだ「武田勝頼」の奇跡について、分かり易く「動画解説」にしてみました。 長篠の戦いで大敗を喫し、真田信綱・真田昌輝を始め、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、原...
真田信繁にござる。江戸時代からは真田幸村?とも呼ばれているようじゃが、まぁ、ワシはどちらでも良いぞ。 さて、いつもは「こっち」で出没する機会が多いのじゃが、今回は特別に遠路はるばるやってきたでござるよ。 それでは、簡単にワシ「真田幸村(真...
真田信繁(真田幸村)は真田昌幸の次男である。 戦国時代には多くの武将が後世に名を残しているが、その多くは「長男(嫡男)」である。 理由は簡単だ。 家督を継ぐのは世襲制であり、よっぽどな事が無い限りは長男に継承権があったためだが、もちろん、...