河原隆正と河原綱家 真田家の家臣

 

河原隆正

 河原隆正(河原丹波守隆正)は1509年生まれで、真田幸隆に嫁いだ正室・河原殿の兄。

 信濃の豪族で海野家の海野棟綱に仕えていたが、1541年、海野平の戦いで武田信虎村上義清連合軍に敗れると、海野棟綱に従って関東管領・上杉憲政の元へ逃れた。

 その後、武田家に降った真田幸隆に仕え、その子・真田昌幸の代まで存命しており、1578年に死去した。

 河原隆正には長男・河原宮内助、次男は名前が不明だが、三男・河原綱家(河原右京亮綱家)がいる。

 この河原隆正の長男・河原宮内助と次男は、1575年5月21日の長篠の戦いで討死したため、真田昌幸と同様に3男の河原綱家が家督を継いで、真田昌幸の家老となり大活躍した。



河原綱家

 河原綱家の名は右京介、右京助、又次郎、河原綱隆ともあるが、生没年は不明。
 そして、綱家の「綱」の字は、真田幸隆の嫡男・真田信綱から与えられたものである。

 武田勝頼が天目山で滅亡した際には、新府城から岩櫃城へ逃れる際、河原綱家が一行を守った。

 1587年8月25日の記録では、吾妻領内の唐沢山の年貢取り立てで、山手銭の徴収を譜代重臣・河原綱家が代官として任ぜられている。

 河原綱家の長男・河原左京(河原左衛門尉)は、1580年8月、 真田昌幸の沼田攻略の陣立てに馬廻として名が見られ、19歳での初陣を果たしている。

 (参考) 小助官兵衛の部屋
 引用元:河原隆正と河原綱家







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