於きた【於北殿・於北様】~真田信綱の正室?

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於きた(於北殿・於北様、きた)は中野の箱山城主・高梨政頼の娘です。

井上城主・井上清政(井上次郎座衛門)の養女になってから、真田家の跡取りである真田信綱に嫁いだと推定されますが、正室ではなく側室であったとも考えられます。
ただし、真田信綱の妻は北殿しか確認できていません。
「小県郡御図帳」によると、北さま知行として合計13筆80貫文とあり、娘を1人産んだようです。

真田幸隆の死後、真田信綱は真田家当主として武田勝頼に従いましたが、長篠の戦いで、弟・真田昌輝と共に討死してしまいました。

真田信綱には、別の女性との間に設けたと考えられる、真田信興、真田信光の2人の子がいましたが、まだ幼かったようで、武田勝頼は真田家当主に真田昌幸を命じます。




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真田信綱は「信綱寺」に弔むられ、北殿は、真田の里にある真田信綱の館で余生を過ごしたと言います。
真田家を継いだ真田昌幸の正室・山手殿は思いがけず、宗家の奥方となりましたが、戦国の習いとはいえ、北殿は対照的です。

北殿の娘は、のちに真田昌幸の嫡男・真田信之の正室に上がります。
しかし、のち徳川家康の養女・小松殿を正室に迎えたため、北殿の娘は側室に格下げとなりました。

真田信綱の館跡近くには、現在、廣山寺(広山寺)があり、そこに北殿の墓もあります。

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