三好宗渭 真田十勇士「三好清海入道」のモデル武将

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三好三人衆の一人で、真田十勇士三好清海入道のモデルと言うと、信長の野望シリーズを遊んでいる方はすぐに「三好政康」の名前が出てくると思いますが、三好宗渭(みよし-そうい)の本名は三好政勝(みよし-まさかつ)が正しい名前のようで、弟には三好為三(みよし-いさ)がいます。
なお、一次資料には三好政康の名前が無く『三好別記』の三好政康と『十河物語』の三好政泰は十河存保(そごう-ながやす)の事を指していると言われています。
※この場では三好宗渭で統一しています。

三好宗渭の出自

三好宗渭の父に関しては諸説あるようで、三好長慶(みよし-ながよし)の曾祖父にあたる三好之長(みよし-ゆきなが)の弟三好勝時(みよし-かつとき)の子である三好政長(みよし-まさなが)とも、三好之長の次男である三好頼澄(みよし-よりずみ)とも言われていますが、ここでは父は三好政長と言う説を取って話を進めていきたいと思います。
簡単な系図も用意しましたので確認しながらお付き合いください。

三好家系図

永正17年(1520年)本家当主の三好之長は等持院の戦いで細川高国(ほそかわ-たかくに)に敗れ、一族の多くが処刑されました。
細川高国と家督を争っていた細川澄元(ほそかわ-すみもと)は三好氏を頼って阿波国へ落ち延びてきますが病を得て死去。
残された三好氏一族は細川澄元の遺児である細川晴元(ほそかわ-はるもと)を守りながら力を蓄え続けます。




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大永6年(1526年)細川高国は讒言から重臣の香西元盛(こうざい-もともり)を謀殺。
これをきっかけとして高国陣営に内紛が起き、三好政長は父と共に堺に上陸し、翌年には細川高国を近江へ追い落とし、本家の三好元長(みよし-もとなが)らと共に堺公方府を誕生させます。
しかし三好政長と三好元長の仲は良くなかったようで、細川晴元に讒言して元長を陥れ一向一揆衆に元長を討ち取らせた後、細川政権の重鎮として河内国の御料所を統治する代官に就任するなどします。

三好長慶・三好義継との争い

細川晴元の元で権力を振るう三好政長でしたが、三好元長の遺児である三好長慶が成長して出仕すると御料所を巡っての対立が深まり、数多くの戦闘を経て江口城の戦いで三好政長は三好長慶に討ち取られます。
この時、三好宗渭は近隣の榎並城に立て籠もっていましたが、包囲を脱出して逃亡。
細川晴元と将軍の足利義輝は近江へと落ち延びます。
その後も、讃岐の香西元成(こうざい-もとなり)や丹波の波多野晴通(はたのはる-みち)らと手を組み幾度となく京へ進入しますが、勢力を維持する事はできず、10年近くに及ぶ闘争の末、永禄元年(1558年)には三好長慶の配下となります。

永禄7年(1564年)三好長慶が死去すると、後を継いだ三好義継(みよし-よしつぐ)の後見役となり、三好長逸(みよし-ながやす)岩成友通(いわなり-ともみち)と共に、三好三人衆の一人として松永久秀(まつなが-ひさひで)と後見役を務めます。
永禄8年(1565年)将軍足利義輝を松永久通(まつなが-ひさみち)と三好三人衆が襲い殺害し京都支配の主導権を握りますが、今度は松永久秀と三好三人衆の間で権力闘争が勃発します。

一時は三好義継を迎え、阿波の篠原長房(しのはら-ながふさ)や大和の筒井順慶(つつい-じゅんけい)らを味方に付け、松永久秀包囲網を築き上げますが、永禄10年(1567年)主君の三好義継は出奔して松永久秀の元へ走ります。
三人衆は多聞山城を包囲して戦いを優位に進めますが、永禄11年(1568年)になると、織田信長が将軍足利義昭を擁して上洛を開始。
三人衆に圧されていた三好義継と松永久秀は織田信長に急接近をし、信長軍の力を持って畿内から三好三人衆を駆逐します。




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三好宗渭は木津城から撤退し、これ以後も、石山本願寺と協力したり、織田信長と不和になった足利義昭に従い抗争を続けていきますが、比叡山延暦寺の焼討の際に信長軍に敗北した後、動向がわからなくなりました。

三好清海入道の逸話

三好宗渭は亡くなって家督を弟の為三が継いだとも、生存説をとって真田十勇士の三好清海入道のモデル、三好清海になったとも言われていますが、逸話の域を出るものではありません。

所で、愛知県東海市にも姫路城を築城した事で有名な池田輝政の配下で三好清海と言う人物が存在していました。
以下、觀福寺の本堂前に展示されている『觀福寺と清海入道』と『三好清海入道絵』から簡単に抜粋すると

三好清海入道絵

東海市渡内出身の深谷助左衛門は大男で力が強く信仰心も厚い人物で清海入道と言いました。
清海入道は觀福寺に雨の日も風の日も願をかけて千人力を授かりましたが、

三好清海入道絵2

ちょっと歩いただけでも「ずしんずしん」と凄い音がするため、百人力に下げてもらいます。百人力に下げてもらった清海入道は三十六貫の鉄棒を軽々振り回し各地の戦いに従軍。

戦後は武具を觀福寺に奉納し、奉納された兜をかぶると、病気をしないと言われたそうです。

奉納された武具
觀福寺に奉納された武具

こちらの三好清海も地元の伝承に過ぎないと言ってしまえばそれまでですが、思わぬ所から思わぬ人物の逸話が出て来る事は歴史の楽しさでもあります。




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觀福寺
愛知県東海市大田町天神下ノ上5

(寄稿)だい

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