真田昌親【真田昌幸の4男】九度山でも交流

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 真田昌親(さなだまさちか)は、1583年に生まれた真田昌幸の4男(3男とも?)。通称は内匠。
 母に関しては某氏としかなく詳細は不明。

 元服すると信濃内村郷平井村に住んだようで、1600年、関ヶ原の戦いの際には、兄・真田信之に従って、徳川家康に味方した。

 この時には真田昌親の逸話がある。

真田昌親の逸話

 石田三成からの密書を、真田昌幸が下野の犬伏で受け取った時だ。
 
 この時、真田昌親は父・兄らと別行動を取っていたのか、不在だったようで、真田昌幸は「置手紙」を置いて、真田幸村と陣を引き払い、真田信之は徳川家康のもとに急いだ。
 そして、置手紙を読んだ真田昌親も、兄・真田信之の陣に向かったが、既に徳川家康のもとへ向かっていたため「自分も家康殿の陣に行こう」と向かったと言う。

 そんな最中に、行き違いで徳川家康からの使者が真田昌親の陣に到着。
 家康に報告した真田信之から事の次第を聞き、真田昌親の動向を確認する為にやってきたのだ。
 しかし、不在であり残っていた家臣も真田昌親がどこに行ったのかわかっていなかった為「こやつも裏切ったな」と、急ぎ家康の本陣に戻って報告した。

 そのあとに、遅れて真田昌親が家康の本陣に出頭してきたので、徳川家の家臣らは「どういうつもりだ」と怪しんで疑ったが、兄・真田信之と同じように、父・真田昌幸と真田幸村が裏切ったと報告したため、許されて、兄・真田信之に従うようにとの命を受けたとされる。




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 真田昌幸と真田信繁(真田幸村)が九度山に蟄居した際には、生活費を届けにも出向いている。

 1632年に死去。享年49。

 嫡男・真田蔵人と、次男・真田多聞は、共に善光寺に葬られたと言われている。

 3男の真田信親は、松代3代藩主・真田幸道から内分分知されて2000石となると、徳川幕府の旗本となった。

 その後、真田信親には後継者がおらず、従兄弟・真田信政の長男・真田信就の七男(真田信弘)を養子に迎えましたが、この真田信弘が松代藩の家督を継ぐことになったため、領地は松代藩に返還され、家系は断絶したと言う。

 引用元:真田昌親