真田幸隆の嫡男・真田信綱
真田信綱(さなだのぶつな)は、武田家の家臣・真田幸隆(真田幸綱)の嫡男として、1537年に生まれた。
母は真田家の譜代家臣・河原隆正の妹(名前不詳、恭雲院)。
弟に真田昌輝、真田昌幸と真田信尹がいる。父・真田幸隆は武田信玄に仕えて頭角を現した名将。
しかし、嫡男・真田信綱の幼少からの史料は残っておらず、初陣した時期も不明だが、真田氏の氏神・四阿山白山神社奥宮に奉納された記録によると、父・真田幸隆と連署で名が見られることもあり、真田家の大切な嫡男として英才教育を受けたと考えられる。正室は、高梨政頼の娘・於きた(於北殿・於北様)で、井上城主・井上清政(井上次郎座衛門)の娘(養女になった?)とする説もあるが、側室だとも考えられる。
「小県郡御図帳」によると、北さま(於北殿)知行として合計13筆80貫文とある。この高梨政頼は、信濃・中野箱山城主で、井上清政も同様に上杉謙信の後ろ盾を受けて、武田信玄に抵抗した武将であるが、真田幸隆の活躍もあり所領を失うと、武田家への臣従の証しとして、高梨政頼は娘を真田信綱に嫁がせたと推測する。
真田信綱には、真田信興、真田信光の2人の子が生まれたが、生年・没年など詳しい事は不詳である。1561年、上杉謙信と激戦となった第4次川中島の戦いでは、真田信綱は父・真田幸隆と共に妻女山攻撃の別働隊として参戦。
先陣は春日虎綱、ニ陣として飫富虎昌、馬場信房、上原昌行(小山田備中守)、 甘利左衛門らとともに「きつつき戦法」隊に加わった。
この時、15歳の弟・真田源五郎(真田昌幸)が初陣を果たしている。
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1563年、岩櫃城攻略の頃から、真田幸隆は上野吾妻郡を中心に動いており、信濃の真田本願地は真田信綱が事実上守備していたとも考えられる。
1568年には、真田幸隆に代わって出陣したようで、真田昌輝と兄弟で駿河国攻めの先鋒を担い、1569年、三増峠の戦いでは真田昌輝や内藤昌豊とともに、殿軍を務めて戦功を挙げた。
1572年の「信玄惣人数書上」によると真田幸隆に代わって、真田信綱が信濃先方衆の筆頭に挙げられているので、それ以前までに真田家の家督を実質的に継いだ可能性が有る。1572年、武田信玄の西上作戦にも従軍し、徳川家康勢と戦った三方ヶ原の戦いでは、武田軍の先手を務めて奮戦するも武田信玄が病没。
1574年5月に、父・真田幸隆が亡くなると、正式に真田家を相続した。
1575年5月21日、武田勝頼に従った長篠の戦いでは、三尺三寸の陣太刀・青江貞を振り回し、馬防柵を次々なぎ倒し、織田信長勢に迫る活躍を見せる。
しかし、鉄砲部隊の射撃によって、弟の真田昌輝と共に討死した。享年39。真田信綱を撃ったのは徳川勢の渡辺政綱(渡辺守綱の一族)だと言われるが、実際には織田信長配下の柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の配下ではないか?とする説もある。
いずれにせよ、真田信綱の首は着用していた陣羽織に丁寧に包まれ、甲冑を着たままの遺体として、真田家臣の北沢最蔵と白川勘解由が涙ながらに甲斐に持ち帰った。
(首は徳川勢に持ち去られたとも?)
この「血染めの陣羽織」は、真田昌幸が位牌所として建立した信綱寺(上田市)に収蔵されている。
なお、北沢最蔵と白川勘解由の2人は、真田信綱を追って殉死。
真田家はその忠義を賞して、北沢家に300石、白川家に200石の所領を与えて忠義に答えた。本来であれば、真田家の家督は嫡男の真田信興が継ぐものとも考えられたが、武田勝頼は武藤家を継いでいた同母弟の真田昌幸に真田家の家督を継がせている。