豊臣大坂城の現状
豊臣秀吉は1583年(天正11年)9月から大坂の石山本願寺跡に大坂城(以下、「豊臣大坂城」という)の築城を始め、その工事は豊臣秀吉没後の1600年(慶長5)年7月ごろまで断続的に続いた。
その間、豊臣秀吉は全国統一事業を急速に進め、大坂の地は政治・経済・軍事などの中心となった。
豊臣大坂城は豊臣政権の象徴としてふさわしい豪華絢爛(けんらん)な城となったが、1615年(元和元年)の大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに完全に破壊された。
豊臣氏の滅亡後、大坂の地は江戸幕府の直轄領となり、大坂城も2代将軍・徳川秀忠により再築された。
この徳川大坂城の築城工事は1620年(元和6年)から西国大名を動員した「天下普請(ぶしん)」により始まり、1629年(寛永6年)にほぼ完成している。
この工事により、豊臣大坂城のすべてが完全に地下に埋められ、その上に盛土を施された。
徳川大坂城の築城において、石垣を含めて豊臣大坂城の建造物が再利用されることはなかったのである。
現在、「大阪城公園」内に「特別史跡大坂城跡」として整備されている城郭遺構や、現存する建造物13棟はすべて徳川大坂城のものである。
地下に眠る豊臣大坂城については、幸運にも多く残されている文献史料や絵図類、また、近年の発掘調査に基づく考古資料も蓄積されている。
本稿では、豊臣大坂城の縄張り(構造)や建造物の特徴などについて、まずは文献史料や絵図類を基に探究する。
本丸の縄張り(構造)と建物
豊臣期大坂城の築城工事は、1583年(天正11年)9月1日から本丸石垣の普請(土木工事)が始まりった。
1583年(天正11年)年11月には天守台が完成し、次いで本丸御殿や山里丸の茶室なども建てられた。
1584年(天正12年)8月8日に豊臣秀吉は山崎城(京都府山崎町)から大坂城へ正式に移っている(『柴田退治記』)。
その後も築城工事は続き、1585年(天正13年)4月頃に天守が完成し、本丸も完成したものと考えられている。
完成した本丸の様子を、イエズス会宣教師のルイス・フロイスが見聞しており、彼はイエズス会総長にあてた1585年(天正13年)年10月1日付けの報告書に以下のように記している。
それは「筑前殿は此所に新たな市を建設し、宮殿及び城を築いたが、信長が其の偉大なことを示す為め安土山に起した建築の比にあらず、遥に之に勝るものである。筑前殿は先づ同所に甚だ宏大な城を築き、其中央に甚だ高い塔を建て、堀・壁及び堡塁を設けた。堡塁は各々塔の如く入口に大小の門あり、門は鉄を以て覆うてある。是は其住居で、又最も親しい役人及び使用人の居所である。此処に其財宝を貯へ又弾薬及び糧食の大なる家を建てた。右は悉く旧城の壁及び堀の中に築かれたが、古い部分も皆改築して、堡塁及び塔を附し、其の宏大・精巧・美観は新しい建築に匹敵してゐる。殊に重なる塔は金色及び青色の飾を施し、遠方より見え一層壮厳の観を呈している」というものである(村上直次郎訳注『耶蘇会の日本年報』第ニ輯)。
この記事から、豊臣大坂城の往時の姿について以下のようなことを知ることができる。
〇織田信長が築いた安土城よりも巨大な規模で、石山本願寺跡(「旧城」)に築かれたこと。
〇城の中央に「甚だ高い塔」(天守)や堀や壁及「堡塁」(櫓・やぐら)を設け、「堡塁」の入口には鉄で覆われた大小の門があること。
〇「重なる塔」(天守)は金色・青色の装飾を施し、遠くから見る外観は一層荘厳であること。
以上のことなどから、豪壮華麗な豊臣大坂城の往時の姿を想像することができる。
文献史料以外の豊臣大坂城に関する資料として古絵図も多く残る。
中でも「豊臣時代大坂城指図」(中井家所蔵)は本丸を描く唯一の正確な古絵図(以下、「本丸図」という)として、信憑性が高く評価されている。
本丸図によると、豊臣大坂城の本丸は、周囲の堀を含めて東西約300m、南北約450mの長方形を呈し、その規模は江戸幕府が再築した大坂城(以下、「徳川大坂城」という)よりも少し小さい。
本丸の東・北・西の三面は、水堀が鈎形(かぎかた)に囲み、南面と南西部は空堀である。
大手虎口(こぐち・城の出入口)は南面の西端近くにあり、土橋を渡って西方向に城門「桜門」をくぐり、塀に沿って右折すると「表御殿」に至る。
表御殿には「御遠侍(とおざむらい)・御対面所・御台所(みだいどころ)・御料理ノ間・御黒書院(くろしょいん)・御文庫・御風呂・御座ノ間」などの建物がみられる。
表御殿は豊臣政権の中枢であり、特に、表御殿北端の最も奥まった所に位置する「御座ノ間」が、豊臣秀吉の公的な執務室であったと考えられる。
豊臣秀吉は、平時にはこの表御殿で朱印状等の発行、命令や指示、客人との面談など政治・経済・外交等の政務一般をおこなっていたものと考えられる。
本丸図の中央部には二重の石垣で囲まれた約100m四方の詰の丸と、その中央部に殿舎が建ち並ぶ「奥御殿」が描かれている。
奥御殿の建物には「御遠侍・御広間・御対面所・小書院・御焼火(たきび)ノ間・御納戸(おなんど)御殿・御風呂屋・御物土蔵(おものどぞう)」などの記載がある。
奥御殿の東北部、すなわち詰の丸の東北隅には「御天守」が描かれており、「東西十二間」(約21.8m)、「南北十一間」(約20m)の規模誇る「御天守」が描かれている。
この天守は、文献史料や絵図類から高さ約40m、5重6階地下2階の望楼(ぼうろう)型天守で、外観は漆黒(しっくい)であることが知られる。
「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵)には、最上階に鶴、その下の階に虎がそれぞれ金箔押(きんぱくおし)で描かれている。
また、「大坂城図屏風」(大阪城天守閣蔵)には、1階外観に菊紋(きくもん)と桐紋(きりもん)、2階に牡丹唐草(ぼたんからくさ)、3階に菊紋と桐紋、5階に巴文(ともえもん)、最上階は廻縁の上が菊紋と桐紋、下に牡丹唐草が描かれている。
豊臣大坂城の天守の規模は、現存する姫路城(兵庫県姫路市)の天守とほぼ同じであり、その外観は前述したルイス・フロイスの報告にあるように豪壮華麗であったことが想像できる。
こうした天守と奥御殿がある詰の丸は、城主の豊臣秀吉と正室「ねね」(「北政所(きたのまんどころ)」)が常時生活する居館であった。
1589年(天正17年)8月の「定 御本丸鉄御門番事」(『富岡文書所収』)に「当御門番衆の外、おとこのたぐひ、一切ふせるまじき事」、また同定書の別条に「とりの上刻より明るたつの刻まで、女房ども一切城中の出入あるべからざる事」とある。
「鉄御門」は多聞櫓の下にある奥御殿の門であり、二つの記事から、午後5時から翌朝8時までの夜間は男子禁制であったことが考えられる。
詰の丸の北側には高さ3尺の石垣で東西2区画に区分された一画があり、「山里丸」と呼ばれていた。
山里丸にはひなびた草庵茶室が散在し、庭園が設けられていたと考えられているが、本丸図にはその記載はない。
この山里丸から北側の二の丸へ渡る木橋が1596年(慶長元年)に築かれ、「極楽橋」と呼ばれている。
この極楽橋についても、ルイス・フロイスは漆塗りで金箔や宝石が散りばめられ、彫刻で飾られた極彩色(ごくさいしょく)の橋であり、素晴らしい輝きを放っていると記録に残している。
極楽橋にあった唐門(からもん)は豊臣秀吉の没後、彼を祀る豊国神社(京都市東山区)に解体・移築され(『義演准后日記』)、さらに1602年(慶長7年)には琵琶湖の竹生島(ちくぶじま・滋賀県長浜市)に寄進されたと伝わる(『舜旧記』)。
竹生島は、豊臣秀吉が初めて城主を務めた長浜城(滋賀県長浜市)とも深い関係があり、現在、竹生島にある宝厳寺(ほうごんじ)の唐門(国宝)が極楽橋の唐門と考えられている。
二の丸・惣構・三の丸の縄張り(構造)と建物
二の丸は1586年(天正14年)正月頃から始まり、1588年(天正16年)年6月頃まで、豊臣秀長(ひでなが)が普請総奉行を務め、毛利輝元らの西国の諸大名が動員されておこなわれた。
1586年(天正14)年5月4日に大坂城を訪問したルイス・フロイスは報告書に「濠は今大坂城の周囲に構築中であるが、(中略)濠は幅四十畳深さ十七畳である」と記している(村上直次郎訳注『耶蘇会の日本年報』第ニ輯)。
1586年(天正14)年4月に大坂城を訪問した豊後(大分県)の大友宗麟(そうりん)は、同月6日付けの国元への手紙に「堀の深さ、口の広き事は比類なく、ただ大河の様に候、堀底より大石を以ていしさしを仰せ付けられ候様躰、見るさへも奇特不思議と存じ候」と記している。
二の丸の築城工事で構築された堀の幅は20間(約40m)、深さは15~16間(約30~32m)で、石垣の高さは14間(約28m)余りと本丸石垣の9間(約18m)を超えるものであった。
二の丸の範囲と虎口の位置は、豊臣大坂城の遺構をもとに大改修を加えた徳川大坂城とほぼ同じ位置であったと考えられている。
二の丸内部の詳細は、記録が少なく不明なことが多かったが、近年の発掘調査の成果や大坂夏の陣(1615年)に関する史料や絵図類から以下のことが明らかになっている。
初期の近世城郭では、本丸の周囲の曲輪に重臣の屋敷が置かれる例が多くみられる。
豊臣大坂城においても、二の丸には「市正(いちのかみ)」の官名で知られる片桐且元(かたぎり かつもと)や、速水守久(はやみ もりひさ)、木村重成(しげなり)、大野治長(はるなが)らの重臣の屋敷があった。
片桐且元屋敷は「市正曲輪(ぐるわ)」、大野治長屋敷は「大野修理(しゅり)丸」として、その名を留めている。
二の丸の西側に位置する西の丸には、北政所の屋敷があったが、後に徳川家康が譲り受けて新たに4重の天守を築いた。
その他、二の丸の南西には「西之大手口」があり、徳川大坂城の大手口とほぼ同位置と考えられている。
西之大手口に近接する「千貫(せんがん)櫓」は、石山本願寺の時代から豊臣期、そして徳川期にも引き継がれ、現在も徳川期の千貫櫓が現存する。
また、西之大手口の外側には「織田上野殿丸(こうずけどのまる)」という曲輪があり、その名称から織田信包(のぶかね)の屋敷があったと考えられている。
京橋口の外側一帯は「ササノ丸」と呼ばれ、その一角に江原九衛門(えはら くえもん)の屋敷があったと伝わる。
玉造口の外側には「算用(さんよう)曲輪」があり、曲輪内には多聞(たもん)櫓が建てられていたことが史料から分かる。
二の丸築造後、1594(文禄3)年正月から1596(文禄5)年10月後半にかけて、惣構の築造工事がおこなわれている。
惣構の範囲については後述する三の丸の範囲とからめて様々な説が出されている。
それらの中で『大坂御陣山口休庵咄(やまぐち きゅうあんばなし)』には「惣がまへ、西ハ高麗橋筋横堀の内、南ハ八町目黒門の内」とある。
これに加えて、他の史料や地形の状況などから、東は旧猫間川(現・JR環状線)、西は東横堀川、南は空堀跡(空堀商店街南側とその延長線)、北は大川(旧淀川)と第二寝屋川(旧大和川)の範囲とされている。
惣構内には重臣屋敷の他、「伊勢町・泥町・かたはら町・殿町・侍町・よこ町」の名称が史料にみられ、「殿町」「侍町」以外は商人や職人の町屋が連なっていたと考えられる。
「大坂の冬の陣屏風(模本)」(東京国立博物館蔵)には、惣構を挟んで戦闘が展開する中、惣構内の商家がにぎわっている様子が描かれている。
豊臣大坂城は本丸・二の丸・惣構の築造で終わることなく、1598年(慶長3年)6月頃から三の丸の築造工事が始まり、豊臣秀吉没(1598年9月)後の1600年(慶長5年)7月ごろまで続いた。
この三の丸の位置や範囲などについて、近年、明治期以来の惣構と同一であるとの通説が批判され、以下のような説が出されてきた。
まず、桜井成広氏は、惣構と三の丸とは別の外郭であるとして「慶長年間大坂城図」などに描かれている馬出曲輪を三の丸に比定した。
それに対して、岡本良一氏は現地の痕跡などをもとに、天満橋(てんまばし)あたりから谷町筋を南下し、谷町3・4丁目の境で東に折れ、さらに南進して竜造寺町から東へ折れ、曲折しながら森之宮東之町あたりへ続く線を三の丸堀跡に比定する説を発表したが、その根拠となる絵図類がなく推定の域をでなかった。
ところが、1980年(昭和55年)7月に仙台市で発見された『偃台武鑑(せんだいぶかん)』所収の「大坂冬の陣配陣図」に三の丸と考えられる曲輪が描かれており、三の丸の位置や形状、規模などを解明する手がかりとなっている。
豊臣大坂城の特徴
豊臣秀吉がその権力の象徴として築いた豊臣大坂城は、大坂の陣で灰燼に帰し、その後の徳川大坂城の築城により現在、地下に眠っている。
そのため、縄張り(構造)や遺構などを現地で観察することはできないが、当時の文献史料や絵図類などから、豊臣大坂城の特徴を考えることができる。
豊臣大坂城の縄張り(構造)は、織田信長の安土城よりも巨大な規模で、本丸・二の丸・惣構・三の丸からなり、それぞれの曲輪は高石垣、広大な水堀・空堀で囲まれていた。
それらのうち、三の丸の位置や位置や形状、規模などについてはさまざま説があり、今後の研究の進展が求められる。
天守をはじめ本丸御殿・奥御殿の殿舎、櫓、門などの建造物は豪壮華麗なものであった。
それらのうち、天守は高さ約40m、5重6階地下2階の望楼型天守で、外観は漆黒に金箔押の紋様や菊紋・桐紋などが施され豪壮華麗なものであった。
現在、「大阪城公園」にそびえ立つ復興天守は、1931年(昭和6年)に豊臣大坂城の天守を想像して「大坂夏の陣図屏風」をもとに建てられたものである。
ただし、位置は徳川大坂城天守が建っていた場所であり、豊臣大坂城天守の位置とは異なる。
また、山里丸から北側の二の丸へ渡る極楽橋にあった唐門は、豊臣秀吉の没後、豊国神社を経て琵琶湖の竹生島に移された。
現在、竹生島の宝厳寺の唐門(国宝)が極楽橋唐門と考えられており、豊臣大坂城の唯一の建築遺構として往時の華麗な姿を伝えている。
豊臣大坂城については、近年の発掘調査で石垣などの遺構や遺物が検出され、その規模や形態などが明らかになりつつある。
今後、この発掘調査の成果をもとに考古学、文献史学、建築学などからなる総合的な研究が進展することで、豪華絢爛な豊臣大坂城の姿が甦る日が来ることを期待したい。
<主な参考文献>
笠谷 和比古・黒田 慶一 2015年『豊臣大坂城 秀吉の築城・秀頼の平和・家康の攻略』新潮社
中村 博司 2000年「秀吉の大坂城拡張工事についてー文禄3年の惣構普請をめぐって」(渡辺武館長退職記念論集刊行会編『大坂城と城下町』思文閣出版 所収)
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖、他 1981年『日本城郭体系 第12巻 大坂・兵庫』新人物往来社
平井 聖・小室栄一 2001年『図録 日本の名城』河出書房新社
(寄稿)勝武@相模
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