戦国時代・江戸時代の武将、城郭など
真田信勝・真田左馬助【真田昌幸の3男】
真田信勝(さなだのぶかつ)は、真田昌幸の3男(4男)とも。生年も不明。通称は真田左馬助。 母の名は某氏とあり不詳だが、兄・真田信之、真田幸村とは母が異なり、年齢もかなり離れていたとされている。 江戸幕府が開かれると、弟・真田昌親と同じよ...
戦国時代・江戸時代の武将、城郭など
真田信勝(さなだのぶかつ)は、真田昌幸の3男(4男)とも。生年も不明。通称は真田左馬助。 母の名は某氏とあり不詳だが、兄・真田信之、真田幸村とは母が異なり、年齢もかなり離れていたとされている。 江戸幕府が開かれると、弟・真田昌親と同じよ...
真田昌親(さなだまさちか)は、1583年に生まれた真田昌幸の4男(3男とも?)。通称は内匠。 母に関しては某氏としかなく詳細は不明。 元服すると信濃内村郷平井村に住んだようで、1600年、関ヶ原の戦いの際には、兄・真田信之に従って、徳...
九度山は、高野山への入口にあたる北谷にある。 北側に紀ノ川の流れを望み、高野山の東北を繞って、紀ノ川へと注ぐ丹生川を見下ろす「丘」の中腹に、真田屋敷があった。 上田城にいた際の居館とは比べ物にならないが、大台所のまわりに、家来・小者や侍...
更科姫は、村上義清の重臣・楽岩寺馬之介の娘。 文武両道でしかも美人だったと伝わる更科姫は、信州一の女性剣士といわれ「日本女性三傑」とも称された女性だ。 相木城主・相木昌朝の子とされる相木信房(相木幸雄、相木森之助とも?)と、1534年に村...
真田信繁にござる。江戸時代からは真田幸村?とも呼ばれているようじゃが、まぁ、ワシはどちらでも良いぞ。 さて、いつもは「こっち」で出没する機会が多いのじゃが、今回は特別に遠路はるばるやってきたでござるよ。 それでは、簡単にワシ「真田幸村(真...
池田綱重(いけだつなしげ、池田長門守綱重)は真田昌幸の家臣で、砥石城代を務めた時期もあったと言う。 真田昌幸の話によると「真田家随一の奇襲の名人」とされ、徳川勢との第一次上田城の戦い(上田合戦)では、池田綱重が鉄砲隊を率いて、徳川の先鋒部...
相木森之助(あいきもりのすけ、相木盛之助、相木幸雄)は、武田家の一族・加賀光経(加賀美四郎)の家臣。 加賀美四郎の腹心であったとされるため、筆頭家老と推定でき、真田三代記では勇者として登場する。 賀美家は、武田氏祖・武田信義の弟・加賀美...
姉山甚八(あねやまじんぱち)は、真田家の草の者。 すなわち忍者である。 おなじ草の者である女忍・お江や、奥村弥五兵衛らと共に、甲賀の山中に潜入。 山中忍びの牛原の茂兵衛と戦うと、甲賀の飛苦無を肩に受けて大怪我を負った。 甲賀からの撤退する...
根津甚八さんと言うと、どうしても、著名な俳優・根津甚八さんを連想する方も多いかと存ずるが、ここでは真田十勇士の根津甚八についてご紹介したい。 真田十勇士に登場する根津甚八(ねづじんぱち)の姓は、滋野三家(海野・禰津・望月)の根津である。 ...