恩田家は、上野・沼田庄恩田(群馬県沼田市)の土豪で、1561年の段階では沼田衆に、恩田孫五郎・恩田与右兵衛尉の名がみえ、上杉謙信の支配下に加わっていたとみられる。
1579年に北条氏政が沼田城を領国としたが、その後、武田勝頼の命を受けた真田昌幸が沼田城を陥落させるなどし、この頃の恩田越前守・恩田伊賀守は真田家に臣従した。
1582年、本能寺の変の直後は、沼田城に詰めていたようで、鉢形城主・北条氏邦が攻撃した際に、恩田越前守と下沼田豊前守が落城して城を脱出したとある。
また、1582年頃には、下河田10貫722文、大原(郡利根村)5貫文を真田家より知行している。
恩田越前守
恩田能定(恩田越前守能定)は森下城主だった事もあったで、真田昌幸に従った。
1581年10月上旬には、長井坂城を務めていたようで、北条氏邦5000騎の攻撃を受ると一時押し返したが、北条氏邦自らの出陣には、さすがに200騎では防げず落城し、沼田城に退却している。
1582年、本能寺の変の直後は、沼田城に詰めていたようで、鉢形城主・北条氏邦が攻撃した際に、恩田越前守と下沼田豊前守が落城して城を脱出したとある。
また、1582年頃には、下河田10貫722文、大原(郡利根村)5貫文を真田家より知行しており、沼田城主の矢沢頼綱の配下に加わり、金子綱重らと何度も北条勢を撃退した。
1585年徳川勢との上田城の戦いでも、その名が見られる、真田家臣の中でも武勇ある武将であったようだ。
1600年、石田三成の関ヶ原の戦いで西軍が敗れたあとの動向は不明である。
しかし、1614年、大阪冬の陣にどうも参陣したようで、子の恩田左京とともに討死したと伝わる。
真田幸村に従ったものと推測するが、真田信之勢に加わっていた可能性も否定できず、確証はない。
なお、恩田越前守の子と推測される恩田左門は、真田信之に仕え、次代・恩田左門は、1656年に沼田領を継いだ真田信利の時には年寄役300石になっている。
その子である恩田庄兵衛も真田信利に仕えたが、1681年に真田・沼田藩が改易となったあとは、浪人したようだ。
しかし、浪人中だった恩田庄兵衛の子・恩田利忠は、1729年に、新しく沼田藩主として入っていた本多正矩に奉公を願い出て、中小姓格御広間番として出仕している。
スポンサーリンク
恩田伊賀守
1582年6月12日に、真田昌幸が恩田伊賀守に対して「堪忍分」として、小県郡上条30貫文と上野沼田向発知15貫文を宛行ふと言う文献が見られるが、これは武田勝頼が自刃してから最初に見られる真田昌幸の安堵状である。
堪忍分とは、討死にした遺族などに支給する俸禄であるため、恩田伊賀守の父でも討死したのだろうか?
恩田伊賀守は、いつからか不明だが、上杉景勝に従うと、出羽・庄内の大宝寺城在番を命じられたともあるが、不確定要素が多いか?
なお、史料によっては、恩田越前守と恩田伊賀守が、混同していると思われる節もある。
そのため、恩田越前守と恩田伊賀守が同一人物であった可能性も否定できず、不明瞭な点が多い。
小生も引き続き調査をするところであるが、皆様においてももし情報をご存知であれば、是非、コメント欄にお寄せ願うとありがたい。
(参考) 恩田仰岳・幕末維新期の兵学者